2025年JAF全日本ジムカーナ選手権第6戦
(滋賀県米原市奥伊吹モーターパーク)
『旅の途中』その1
切谷内全日本ダートラ第6戦のWEB掲載が全部終らないけれど、
奥伊吹の全日本ジムカーナ選手権第6戦取材に向けて
7月24日(木)夜、横浜の自宅を出発しました。
今回取材は決勝の日曜日だけなので、
金・土曜日は例によってあちこち寄り道しながら下道を行きました。
長丁場の運転には必需品。競技撮影中も必需品です。
1 武田信玄の小山城跡(静岡県吉田町)
1560年の桶狭間の戦いで、
駿河(静岡県中部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)を治めていた今川義元が
織田信長に敗れ、この地域は徳川氏と武田氏の激しい戦いの場となりました。
二者は、大井川を境に、西を徳川家康が、東を武田信玄が領有するという協定を結びますが
、武田信玄はこの協定を破って境界である大井川を渡り、遠江に進出。
その足がかりとして砦を築き、1571年に城郭を備えて名付けたのが小山城の起こりです。
その後、徳川氏と武田氏の間で奪ったり奪われたりの激しい攻防を繰り返しましたが、
1575年の長篠の合戦で武田氏は織田・徳川の連合軍に大敗。
1582年に武田氏は小山城に火を放ち、甲州へ落ち延びたのちに滅亡。小山城は廃城となりました。
模擬天守 愛知県にある犬山城天守をモデルとしています。
信玄のときは天守は有りませんでした。
三日月掘
2 田沼意次ゆかりの地 相良城址(静岡県牧之原市)
相良城は老中・田沼意次によって築かれた城。
将軍・徳川家治のもとで老中として権勢をふるった意次は、3重の天守など6基の櫓を築きましたが、
失脚後に代わって老中となった松平定信の命によって徹底的に破壊されています。
定信が推し進めたのは緊縮型の改革です。
改革のはじめ、田沼時代を批判した
「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」
という歌が流行りました。厳しすぎる改革を強いられ、
「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
という、世俗的な田沼時代を懐かしむ歌に変わりました。
現在、本丸跡には牧之原市役所相良支所、相良城史料館が、
二の丸跡には牧之原市立相良小学校が、
三の丸跡には静岡県立相良高等学校がそれぞれ建てられています。
遺構は相良小学校の校門脇にある土塁と、仙台河岸に残る石垣のみです。
牧之原市役所相良支所
相良城史料館 意次関連の品々が展示の中心です
田沼意次は賄賂政治家というイメージがつきまとっていましたが
近年、その評価が見直されています。
意次は紀州藩の格の低い家柄の出身でありながら、
第9代将軍家重の側近である御側御用取次(おそばごようとりつぎ)として引き立てられ、
1758年には、相良藩主となり1万石の大名となりました。
第10代将軍家治にも重用され、1767年に御側用人に昇格、
さらに1772年には幕府最高職の老中にまで登りつめました。
幕府の要職にあった意次は、政務で多忙を極め、実際にこの地を踏んだのは一度だけです。
江戸時代中期の1758年から約30年間は、「田沼時代」と呼ばれています。
意次は農民に重税を課すのではなく、商業を重視し民衆を富ませる経済政策を進め、
幕府の財政立て直しを図りました。
意次の政策によって庶民の生活にもゆとりが生まれると、
浮世絵や歌舞伎などの文化も花開き、多くの戯作や浮世絵などの出版も盛んになりました。
蔦屋重三郎など、多くの版元が増えたのもこの頃です。
相良城の二の丸跡にある松の木。
土台部分は二の丸を囲んだ土塁の一部といわれています。
江戸時代から残る貴重な石垣「仙台河岸」の一部
海と城下をつなぐ外堀に位置する船着き場だったと考えられています。
仙台藩主の伊達重村が石を寄進したと伝えられています。
意次が整備した街道「田沼街道」の起点
東海道藤枝宿と相良城下を結ぶ約28kmの街道・田沼街道や相良湊の整備により、
相良藩には物資が集結しただけでなく、東西からさまざまな文化ももたらされ、
相良の地は大いに発展しました。
2 相良油田油井
日本海側の秋田・新潟で石油が採れたということはよく知られていますが、
太平洋側で唯一つここ相良でも産出しました。
最盛期は手掘り坑数240坑、年産出量720キロリットル(ドラム缶約3,600本)、
産出額40,000円(当時)、従事者約600人でした。
相良の一大産業となった石油ですが、徐々に産出量が減り、
昭和30(1955)年、約80年間続いた相良の石油事業に幕が降ろされました。
昭和25年に開坑した深さ310mの機械掘りのやぐら
3 横須賀城跡(静岡県掛川市)
横須賀城は徳川家康が武田氏の高天神城に対抗するために大須賀康高に命じて築いた城。
横須賀城は武田方諏訪原城、武田・徳川方の争奪地となった高天神城とあわせ、
武田方の進出と衰亡、徳川氏の成長過程を示す貴重な史跡です。
現在は陸地化していますが、
かつては海に直結する内湖に南面していた水陸交通の要地でした。
本丸虎口に復元された玉石積みによる石垣。
玉石は天竜川から調達しました。
4 「FWDワールド」 小浜雄三さん(愛知県西尾市)
2002年、静岡県朝霧で行われた第27回フォーホイラーズジャンボリー(通称JJ)
で出会って以来23年ぶりの再会。
最初の出会いは1977年3JJ、御殿場須山の忠ちゃん牧場でした。
御殿場は丁度2人の居住地の距離中間地。
以来毎年このJJで顔を合わせていましたが、翌2003年を最後に開催されなくなってしまったので、
以後は年賀状だけの交換になってしまいました。
「FWDワールド」は四駆を得意とした整備工場のお店の名前。
最新の4駆は勿論、敷地のあちこちに古めかしい(朽ちかけた)ジープやジムニーが転がっていました。
この後は『旅の途中』その2 に続きます。