2025年JAF全日本ダートトライアル選手権3戦
「DIRT TRIAL IN NASU」
『旅の途中』」
行き
自宅から丸和まで約200㎞。
高速を使えば3時間半で到着しますが、下道を使って寄り道しながら北上するので、
4月24日(木)夜横浜の自宅を出発しました。都内は夜通過する方が早くて楽です。
帰り
大会終了後の帰りは一目散。
の日のうちにどこにも立ち寄らずレスコン、ガスコンの2ストップ時間を含め
200㎞を5時間で走破しました。
宇都宮から春日部まで国道4号線バイパス。速い速い。燃費も良い。
1 三県境
三県境は栃木県栃木市・群馬県板倉町・埼玉県加須市(北川辺地域)にまたがり、
道の駅かぞわたらせの南東方向約500メートルの水田にある行政界です。
全国に40か所以上あるといわれている三県境の中でも唯一平地に存在し、
歩いて三歩で回れる県境です。
三県境は以前、渡良瀬川の中に位置していましたが、
明治時代から大正時代にかけての渡良瀬川の改修工事により、現在の河道に変わり、
現在の水路の位置となりました。
2021年8月プレートが盗難に遭い、翌年再設置されました。
2 茂林寺(群馬県館林市)
茂林寺は童話「分福茶釜」の舞台としても有名で、
茶釜に化けたたぬきが福を与えたと言われる伝説があるお寺。
たぬき伝説の寺らしく山門をくぐると24体のたぬき像が出迎え、
寺内には分福茶釜や様々な表情の狸コレクションが大切に保存されています。
境内には小林一茶の句碑がありました。
「蝶々の 婦ハリ(ふわり)ととん多(飛んだ) 茶釜哉」。
裏に「おらが春、八番日記、文政二年」とあり、ホントに立ち寄ったみたいです。
お寺の裏には、美しい湿原が広がっていました。
3 正田記念館(群馬県館林市)
正田醤油は日清製粉の創業家として知られる上皇后美智子様のご実家の正田家の本家筋です。
正田醤油の歩みを語りつづけている正田記念館は
本社屋として昭和61年(1986)まで使用されてきました。
内部には正田家300年の家系図に始まって、
創業当時の醸造道具や昭和初期のポスターなど江戸時代から
明治、大正、昭和にかけての記念品が数多く陳列されています。
※正田醤油の創業者・正田文右衛門の孫・正田貞一郎が館林製粉を明治33年に館林市で創業し、
現在の日清製粉となりました。
正田貞一郎は上皇后美智子さま(旧姓・正田)の祖父。
4 館林城跡
徳川四天王のひとり、榊原康政が城主を務めた城
。5代将軍・徳川綱吉も城主を務めました。
徳川四天王とは安土桃山時代から江戸時代初期に、
徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。
館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、
また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、
最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えました。 城址には市役所などが建てられており、三の丸跡に城壁と土橋門が復元されています。
本丸跡は「つつじが岡第二公園」になっています。
5 つつじが岡第二公園(群馬県館林市)
城沼の南岸は「つつじが岡公園」。
「つつじまつり(4月8日~5月6日)」の時は有料ですが、
城沼の北西側岸の館林城本丸跡がある「つつじが岡第二公園」は、
規模は小さいけど、ちょうどつつじが満開。
こちらは無料でした。藤も見事でした。
6 田山花袋旧居(群馬県館林市)
田山花袋は小説『蒲団』『田舎教師』の作者。館林の生まれでした。
文豪、田山花袋が7歳から明治11年(1878年)~明治19年(1886年)14歳までの
約8年間過ごした家です。木造茅葺平家建て。
江戸時代後期の武家屋敷のひとつでもあります。
館林市第二資料館に移築されました。
8 亀山晃選手の店「ベストモータースポーツ(栃木県佐野市)
25日の寄り道の締めは栃木県佐野市、全日本ダートラ亀山選手の店「ベストモータースポーツ」。
亀山選手が最後に全日本ダートトライアル選手権Dクラスで優勝したのは2023年7月の切谷内。
67才で最年長記録を更新。それまでの最年長優勝は2013年4月おおむたで63才の田嶋伸博選手。
「今年69才。優勝して最年長記録を更新したい」と。頑張れ亀山選手!
今回第3戦丸和の結果はD2クラス4位でした。
9 唐沢山城跡(続日本100名城 栃木県佐野市)
4月26日(土) 丸和のゲートオープンは10時なので、早起きして唐沢山城を散策しました。
唐沢山城は佐野氏の居城。関東七名城のひとつに数えられる城。
関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴です。
関東七名城とは唐沢山城のほかは川越城、忍城、前橋城、新田金山城、宇都宮城、佐竹城(太田城)。
本丸、二の丸、三の丸、空堀などの遺構が残されています。
立地的に相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれていたため、たびたび戦場となりました。
佐野氏は当初は上杉謙信と結んでいましたが、のちに関係が悪化したため
、唐沢山城は謙信により10度にわたって攻められることになりました。
しかし謙信を何度も撤退させたため、関東一の山城と賞賛されました。
戸時代に入り、山麓に佐野城が築かれたため唐沢山城は廃城となりました。
本丸跡には唐沢山神社が建立されています。
祭神は俵藤太こと藤原秀郷。天慶3年(940)の平将門の乱で将門を討伐したことで有名です。
瀬田唐橋に現れた大蛇に頼まれ、三上山に住む百足を成敗したという伝説があります。
参道「桜の馬場」に芭蕉の句碑を見つけました。
「初桜 をりしもけふは よき碑也」(はつざくら をりしもけふは よきひなり)
句意:初桜がちらほらと花を見せている。
折しも今日はうらゝとよく晴れた好い日であり、まことに初桜にふさわしい日和である。