「KYUSYU SPRING TRIAL IN TAKATA」
4月3日(木)横浜の自宅を出発しました。
今回は飛行機で羽田空港から高松空港へ。
坂出~松山~今治~しまなみ海道を観光しながらタカタへ。
大会終了後はやぶ用で島根県松江へ。
再度瀬戸内海を渡り高松空港に戻り、高松空港から羽田空港へ。
7日(月)夜帰宅。中身の濃い4泊5日の旅となりました。
行きのルート
帰りのルート
1 高松空港(香川県高松市)
今回はJALのタイムセールで格安チケットをゲット。
JALに乗るのは10年ぶり。
その間はSKY JETスター エアDOを利用しました。
高松空港ではCMSC香川の平尾高王さんと松原宏さんが迎えに来てくれました。
そのまま讃岐うどんのお店へ。
メニューが沢山あるので、勧められて釜揚げを頂きました。
この後、松原さんが仕事の都合で我々から離脱。
平尾さんの車で次の目的地に移動。
2 高山航空公園(香川県綾歌郡綾川町)
高松空港滑走路の延長線上にある公園。
離陸直後の飛行機が頭上を通過するのをしばし眺めました。
CMSC香川の高木裕美さんが加わりました。
3 岡製麺所(香川県綾歌郡綾川町)
今日2軒目の讃岐うどんは泣く子も黙る「岡製麺所」(平尾さん談)。
幹線道路から外れた山間部にあるので観光客より地元常連客が多いようでした。
高木さんはおすすめ肉うどん。
小生は1軒目の店から2時間も経っていないので、軽めの醤油うどん小を頂きました。
4 五色台(香川県高松市・坂出市)
高松市の西端、瀬戸内海に突き出た標高400~500mの溶岩台地。
眼下に瀬戸内海や瀬戸大橋が広がります。
左が坂出の街。右に瀬戸大橋が伸びています。
5 白峯寺(しろみねじ 四国第81番霊場 香川県坂出市)
白峯寺で東かがわ市在住のCMSC本部・田中昭男さんと合流しました。
白峯寺は日本三大怨霊の崇徳上皇の菩提寺。(後の2人は菅原道真と平将門)
本堂
頓証寺殿(とんしょうじでん)
保元の乱で後白河法皇に敗れ讃岐国に配流され、
この地で亡くなった崇徳上皇の御廟所で白峯寺内にあります。
崇徳天皇御陵遥拝所
御陵はこの奥にありますが、遥拝所を御陵と勘違いしてここで引き返してしまいました。正に「徒然草」52段、仁和寺の法師の二の舞をしてしまいました。
「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」 崇徳上皇
歌意:浜千鳥の足跡ならぬ私の筆跡なら都に届くであろうが、
私自身はここ松山で浜千鳥よろしく泣くばかりだ。
崇徳上皇より2つ年上の西行法師は崇徳上皇の憤死を知って供養に訪れました。
崇徳院が亡くなってからまだ数年なのに陵は荒れて参詣する人もいない惨状だったそうです。
そこで一晩読経をあげると、崇徳上皇が現れて
「松山や 波に流れて こし船の やがてむなしく なりにけるかな」
と一首詠み、西行法師が涙をながして
「よしや君 昔の玉の 床とても かゝらむ後は 何にかはせむ」
と返歌すると、御廟が鳴動したそうです。
「よしや君 昔の玉の 床とても かゝらむ後は 何にかはせむ」西行法師
6 zおさかな広場 寿司和食 『ここも』 (高松市)
『ここも』 は店の名前です
ここで平尾さん(右)が次の予定のため離脱
。入れ替えに元CMSC香川の森田晋司さん(右から2人目)が合流。
高松で評判の美味しい寿司屋さん(平尾さん談)で、
田中さん高木さん森田さん小生の合計4人で夕食となりました。
食後は高木さん森田さんと別れて、田中昭男さんの車で一路松山へ向かいました。
7 道後温泉本館(愛媛県松山市)
前夜高速のPAで車中泊後、 4月4日(金) 朝、道後温泉本館に到着。
当初は温泉に浸かる予定でしたが、時間の都合で写真だけとなりました。
8 伊予鉄・道後温泉駅(愛媛県松山市)
朝からたくさんの観光客で賑わっていました。
「坊ちゃん列車」レプリカ。
ただし蒸気ではなくディーゼル。
現在は土日祝日のみ運行。料金は1300円。
平日は常時ここに留置されています。
坊ちゃんカラクリ時計
上映時間になると、小説「坊っちゃん」の登場キャラクターが音楽に合わせて動き出します。
カラクリ時計は8時~22時(1時間ごと)、
特別期間は30分ごと(3月・4月・8月・11月の毎日)に動きます。
タイミングが合わず見ることができずなくて残念でした。
9 正岡子規句碑
松山生まれの正岡子規の俳句が市内あちこちにありました。
JR松山駅前 「春や昔十五万石の城下哉」
きせん乗り場(愛媛県松山市三津1丁目)
「十一人 一人になりて 秋の暮」
子規が上京する際、見送りに来た10名の友人に向けて詠みました。
句碑のそばに「きせんのりば」碑。
当時は汽船まで、はしけぶね(※大型船と陸の間を往復した小舟。)に乗船。
その発着地付近に句碑が立っていました。
道後温泉駅前
子規はアメリカ発祥のベースボールを自らプレーし、広め、
野球を題材とした俳句を数多く詠み残しました。
子規が訳した野球用語で現在も使われているものは
「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などがあります。
正岡子規はまさに日本における「野球の祖」といえる人物なのです!
10 松山城(日本百名城 愛媛県松山市)
ロープウエイ、リフト(どちらも往復520円)がありますが、
健康のため東雲口登城道を15分歩いて山頂の天守まで登頂に成功しました。
桜が丁度満開でした。
初代城主は「賤ケ岳七本槍」の一人として知られる戦国武将加藤嘉明。
三代目城主は松平定行。
以後明治まで親藩松平家が城主を務めたので、三ッ葉葵の御紋が付されています。
11 愛媛県立松山東高校
夏目漱石は、1895年から1896年にかけて松山中学(現松山東高校)で英語教師を務めました。
代表作『坊っちゃん』は、漱石自身の松山での教師経験を基にした小説です。
漱石と親交の深かった正岡子規、
1994年ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は
同校(旧制松山中学)の出身です。
中庭に漱石の句碑(右)、子規の句碑(左)が並んで建てられていました。
明治28年(1995年)子規は松山を発ち上京しますが出発前の送別会で、
漱石は「御立ちやるか 御たちやれ新酒 菊の花」と励まし、
子規は「行く我に とどまる汝に 秋二つ」と答えました。
しかし、子規はその後再び松山の土を踏むことなく、漱石はその翌年熊本に去りました。
「御立ちやるか 御たちやれ新酒 菊の花」漱石
「行く我に とどまる汝に 秋二つ」子規
「俳句甲子園」では松山東高校俳句部が活躍しています。
「カンバスの余白八月十五日」(2001年最優秀句 神野紗希(こうの さき)
「夕立の一粒源氏物語」(2002年最優秀句 佐藤文香 さとう あやか)
12 石手寺(四国霊場第51番札所 松山市)
道後温泉から近く、お遍路さんのみならず、多くの参拝者や観光客で賑わっています。
仁王門(国宝)
本堂
石手寺では正岡子規、与謝野晶子、松尾芭蕉の句碑、歌碑を訪ねました。
正岡子規「南無大師石手の寺よ稲の花」
与謝野晶子「伊予の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つ煙かな」
昭和6年(1931)11月上旬、与謝野鉄幹・晶子夫妻は松山を訪れ、
松山城、正宗寺、石手寺などの名所めぐりをししました。
松尾芭蕉「宇知与利氐波奈以礼佐久戻牟女津波几」
(うちよりて はないれさぐれ むめつばき )
「打ち寄りて 花入れ探れ 梅椿」ということで、
句意は「花器にいけた梅椿に春の訪れを探ろう」
残念ながら芭蕉は松山には行っていません。
≪ 続く ≫