2024年JAF全日本ラリー選手権第2戦

「ツール・ド・九州2024 in 唐津」

 

『旅の途中』

 

その3 長崎市内観光編

 

 

1 長崎平和公園

 

原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられました。

 原爆犠牲者の冥福と恒久平和を祈りました。

 

 

平和祈念像

 

この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、高く掲げた右手は原爆の脅威を、

水平に伸ばした左手は平和を意味し、

軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っています

 


 

平和の泉

被爆し水を求めてさまよった少女の手記を刻んだ石碑

詩碑には、原爆の業火の中で水を求める少女を描いた詩が刻まれています。

「のどが乾いてたまりませんでした

水にはあぶらのようなものが 一面に浮いていました

どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

―あの日のある少女の手記から」

 

 


  

 

 

 

原子爆弾落下中心地碑

 

浦上天主堂遺跡

 

 

 

2 一本柱鳥居(山王神社)

 

 

旧浦上街道沿いにある山王神社は、爆心地から南東約800mの場所の高台にあり、

1945(昭和20)年8月の原爆投下により被害を受けました。

社殿は跡形もなく崩れましたが、1950(昭和25)年に再建され現在に至ります。

山王神社の境内入口にそびえる2本のクスノキは、樹齢約5~600年、

胸高幹囲がそれぞれ8メートルと6メートル。

原爆被災により一時落葉し枯れ木同然になったにも係わらず、

2年程度の後、奇跡的に再び新芽を芽吹き、次第に樹勢を盛り返し今日に至っています。

また、蘇った大楠に直接手を触れ、その生命力にあやかろうと毎日多くの参拝者の方が訪れています。

 

 

 

山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居があります。

もともと鳥居は4つありましたが被爆によりその2つが強烈な爆風とともに倒壊しました。

残った鳥居のうち1つは戦後、交通事故により撤去されたため、

現在も当時のままの姿で立っているのは右半分の柱だけを残した一本柱鳥居のみとなりました。

被爆時に吹き飛ばされた左半分はすぐ近くの道路に保存されており見ることができます

 

 

 

 

3 浦上天主堂

 

キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た信徒達によって建設が計画されましたが、

資金難の苦労を乗り越え1914年に完成。

1945年、原爆により浦上教会は無惨にも少しの堂壁を残し壊滅、

アンジェラスの鐘も鐘楼もろとも崩れ落ちました。
現在の建物は原爆投下から約14年後の1959年にコンクリートで再建されたのち、

1980年にレンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されました。

周囲には被爆遺構の石像などが配され、

今も原爆の爆風に耐えたもう一方のアンジェラスの鐘が時を告げています。

 

 

 

 

 

4 グラバー園(南山手地区)

 

長崎は横浜・神戸・函館・新潟とともに開港。長崎外国人居留地が誕生しました。

グラバー園ではスコットランドの貿易商人、トーマス・ブレーク・グラバーの邸宅をはじめ、
日本最古の木造洋風建築「旧グラバー住宅」、「旧リンガー住宅」、「旧オルト住宅」を中心に

、市内に点在していた6つの明治期の貴重な伝統的建造物が移築復元されています。

長崎市のランドマークである稲佐山を背景に長崎港を一望できる絶好のロケーションです。

 

 

 

 

5 大浦天主堂(南山手地区)

 

1865 年に建てられた風格のある西洋建築様式のカトリック教会。

ステンドグラスや彫像があります。

 

 

6 オランダ坂(東山の手地区)

 

出島に住むオランダ人の影響か、開国後も長崎の人々は東洋人以外を

「オランダさん」と呼んでいた為、当時「オランダさんが通る坂」という意味で

居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられています。

現在は、主に活水学院下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂が

オランダ坂と呼ばれています。

活水学院下の坂

誠孝院(じょうこういん)前の坂

 

「丸山オランダ坂」もあります。

 

 

7 シーボルト宅跡

 

シーボルトが長崎市鳴滝(なるたき)に設けた私塾と居宅の跡。

ドイツの医学者の家に生まれ、オランダの陸軍軍医であったシーボルトは、

27歳の時に出島商館医として長崎に来日。

当時日本に来た外国人は、出島から出てはいけませんでしたが、

優秀な医者であるシーボルトは町に出て病人を診察することを特別に許可されました。
シーボルトは、長崎に来た翌年、鳴滝にあった家を手に入れ、

こに「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えています。

ここで学んだ人々は、やがて医者や学者として活躍しました。

 

 

 

 

 

 

8 長崎新地中華街

 

横浜・神戸と並ぶ三大中華街のひとつ。

江戸中期に唐船荷役(とうせんにやく)の倉庫を建てるために埋め立てられた地域で、

現在は多くの中国料理店や商店が並んでいます。

中華街の東西南北には、それぞれ龍や白虎をあしらった朱塗りの中華門が立っていて、

異国情緒をさらにかき立てています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9 眼鏡橋

 

川面に映る影が双円を描き「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われ、

東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。

何処となく皇居の二重橋に似ている気がしました。

 

 

 

 

 

 

10 思案橋

 

路面電車の思案橋電停、道路をはさんだ両側に

橋の欄干の一部を復元した「思案橋跡の碑」が建てられています。

かつてこの付近には玉帯川が流れており、そこに思案橋は架かっていました。

花街時代、男達は丸山花街へ“行こか戻ろか”と思案しながら渡ったので

「思案橋」と名付けられたと言われています。

 


 

 


そこから思案橋通りを約150mほど歩いていくと、「

見返り柳」と「思切橋跡の石碑」が見えてきます。

遊郭の入口・大門(二重門)が見える場所にあった「思切橋」で立ち止まり、

ここで思い切って花街へ繰り出す決意を固めて渡ったので「思切橋」と名付けられました

「思案橋」とバランスをとって架かっているのが何とも洒落ています。
現在は石碑は少し移設されて、見返り柳の下に、思切橋の欄干形の碑が置かれていますが、

かろうじて読み取れる、刻まれた“思切”の文字が、迷いを打ち消し思い切ってこの橋を渡り

、背徳感を感じている男達の光景を思い浮かべることができます。

 

 

 

長崎と言えばカステラ。福砂屋は思案橋近くですがこの日は休業日でした。

 

丸山花街の碑

 

 

11 長崎港

 

4月10日11時 クルーズ客船「セレナーデ・オブ・ザ・シーズ」が長崎初入港。

タイミングよく接岸した船を見ることができました。

全長24m 9万トン。でかい! 

 

 

 

 

 

12 長崎駅

 

長崎駅前。2022年9月西九州新幹線が来るまではここに駅が有りました

 

2022年9月以前の在来線ホーム

 

当時の線路を残していました。

 

 

今の長崎駅

 

 

13 長崎市路面電車

 

長崎電気軌道という民間の会社が運行しています。
1915年(大正4)11月に開業して、100年以上長崎の街を走り続けています

全5路線11.5キロ。

 

 

 

 

 

 

三菱自動車の宣伝車両を見つけました。

 

 

14 稲佐山展望台

 

長崎市のランドマーク的存在で、夜景鑑賞で賑わう人気のフォトジェニックスポットです。

 

 

 

 

15 鍋冠山展望台

 

長崎港を挟んで稲佐山の対岸に位置する絶景ポイント。

長崎港をまたぐ「女神大橋」のライトアップが見られます。

稲佐山に匹敵する美しい夜景が楽しめる人気スポット 。

標高333mの稲佐山に比べ鍋冠山は半分ほどの169mに位置しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

鍋冠山公園から、10日22時出港のクルーズ客船「セレナーデ・オブ・ザ・シーズ」写真が撮れました。

 

 

16 ドンドン坂

 

グラバー園や大浦天主堂に近い南山手の静かな住宅地にあり狭く長いまっすぐな坂。

長崎港を一望できる異国の薫り漂う石畳の坂道。

雨が降ると雨水がドンドンと音をたてて流れてくることから通称「どんどん坂」になったそうです。

 

 

 

17 坂本龍馬像

 

JR長崎駅から東に約3km、風頭山公園に建てられています。

龍馬は腕組みをしてブーツを履き長崎湾を眺めています。

明治維新の立役者坂本龍馬は長崎に亀山社中を設立し、

ここを拠点に活動し薩長同盟を締結しました

薩長同盟から大政奉還、明治維新へと時代は大きく変わっていきました。

 

 

 

 

 

 

 

龍馬像は思案橋近くの丸山公園にも建てられています。

顔つきは少し異なっています。

 

 

18 龍馬のぶーつ像

 

 

 

 

 

 

19 出島

 

徳川幕府の命により築造された人工の島。
1636年に完成し約200年もの間、わが国で唯一西欧に開かれた窓として

日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。

明治期に役割を終えた出島の周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形は姿を消しましたが、

1951年長崎市が出島の復元整備を開始し、

現在までに16棟の建物や景観が当時の姿を取り戻しました。

まるで19世紀の初めにタイムスリップしたかのような空間が広がります。

2017年には、出島表門橋が完成し昔と同じように渡って出島に出入りできるようになりました。