JMRC東北ラリーシリーズ第5戦

「利府ラリー2023」

 

『旅の途中』

 

JAFカップダートラ(福島県エビスサーキット)から帰宅後、

4日間かけてWEB掲載を終らせ、11月9日(木)の夜行バスで仙台に向かいました。

 

 

 

 

 

仙台には翌日10日(金)早朝到着。

 

10日(金)はホテルに荷物を預けて終日仙市内観光。利府町には翌日11日(土)朝入りました。

市内観光には「るーぷる仙台/地下鉄共通1日乗車券」920円がお値打ち。

 

 

「るーぷる仙台」バス

 

 

1仙台朝市

 

 

仙台駅西口から徒歩5分

昭和20年、空襲で焼け野原となった仙台駅前に多くの露店が立ち並び、

そこに誕生した通称「青空市場」が、仙台朝市の起源と伝えられています。

 約70店が軒を連ね、宮城県の旬の食材を豊富に取揃えており、

「仙台の台所」とも呼ばれています。

営業時間は朝8時から夕方18時。

 

 

 

 

笹かまを買って観光しながら小腹に納めました。

 

 

2 仙台城(日本百名城)

 

仙台に来たらまずはここに来なくちゃ!

仙台城(青葉城)は「関ケ原の戦い」の後、伊達政宗によって築かれた伊達62万石の居城。

標高約130m、東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城は、

将軍家康の警戒を避けるために、 あえて天守閣は設けなかったと 伝えられています。

 

 

 

本丸御殿後

 

 

北壁 

 

伊達政宗公騎馬像

 

2023年3月の地震で騎馬の脚が破損して一時撤去して修理中で、

覆っているシートに政宗像が印刷されていましたが、今年3月に復旧、元の姿に戻りました。

 

昨年11月の姿(利府ラリー2022の時) 

 

良く見ると隻眼ではありません。

正宗が「自分の死後に絵画や像を残すときには両眼にして欲しい」

という遺言を残していたためです。

 

 

土井晩翠 胸像

 

「荒城の月」の作詞者(作曲は滝廉太郎)の胸像がここ仙台城にあることで

、晩翠が仙台生まれ仙台育ちであることを知りました。

この後、晩翠が晩年過ごした住居「晩翠草堂」に訪ねることにしました。

 

 

 

3 瑞鳳殿

 

仙台藩祖伊達政宗の霊廟

桃山の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築

 

 

 

 

 

杉の老木に囲まれた境内には二代忠宗公の感仙殿、三代綱宗公の善応殿などもあり、

こちらも極彩色の壮麗な建築です。

 

 

 

 

4 晩翠草堂(ばんすいそうどう) 

 

土井晩翠は「荒城の月」の作詞(作曲は滝廉太郎)などで知られる仙台出身の詩人。

英文学者でもある晩翠は母校の第二高等学校の英語教師として教鞭をふるい、

定年退職の後には名誉教授となって仙台の教育に大きく貢献しました。

晩翠草堂は晩翠が晩年の3年間を過ごした旧宅を保存し、

愛用品や写真、書画などを展示し、公開しています。

 

 

 

 

 

 

晩翠草堂は青葉通りに面しています。

 

門の前には1899年(明治32年)に発表した第一詩集「天地有情」(てんちうじょう)を表した石碑

 

 

5 大崎八幡宮

 

伊達政宗が1607年に創建した神社で、社殿(本殿・石の間・拝殿)は国宝。

隨所に見事な彫刻、彩色をほどこした権現造社殿で、

仙台地方に移入された絢爛豪華な桃山建築の優秀な遺構です。

 

一の鳥居

 

百段階段を一気に上まで

 

三の鳥居 

 

長床(ながとこ)

毎年楽天イーグルスは選手・監督・コーチ全員が参加して

大崎八幡宮で必勝祈願の参拝を行なっています。

 

「長床(ながとこ)」に飾られたスポーツクラブチームの必勝祈願の特大絵馬

 

 

拝殿

 

拝殿も装飾が絢爛。正宗好みの桃山調

 

 

伊達家御用蔵 勝山酒造

 

 

6 国分町

 

ホテル(カプセル】は国分町にありましたが、一日歩き回り疲れたので素通りしました。

 

 

 

 

 

 

7 松島(宮城県松島町)

 

11日(土)午後のメディアレッキまで時間があったので、

松島まで焼き牡蠣を食べに行きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

焼き牡蠣は注文して30分待ちました。

みそ汁はサービス。お替りしました。

 

30個1000円はお値打ち。

 

 

8 陸奥の国一之宮 塩竈神社(宮城県塩釜市)

 

松島から利府町に戻る途上、伊達政宗が再建した塩竈神社にお参りしてきました。

松尾芭蕉が奥の細道の途上立ち寄り参詣した神社です。

 

 

表参道(男坂)から参拝しました。

表参道202段を一気に登りました。

後で緩やかな階段の裏参道(女坂)があることを知りました。

更には車で上まで行ける参道もありました。道理で参詣者が多いはずでした。

 

更に30段先に唐門。

 

 

 

ようやく拝殿。

 

 

 

文治の灯篭。寄進した「和泉三郎」とは奥州藤原氏、藤原秀衡の三男、藤原忠衡のこと。 

芭蕉もこの灯篭を見て500年前(当時)の面影を目の前に浮かべて感涙しました。

芭蕉は塩竈神社参拝後、塩釜港から船に乗って松島に上陸しました。

 

 

 

9 多賀城跡(日本百名城 宮城県多賀城市)

 

 

多賀城は大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として築いた城柵。

平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)とともに日本三大史跡に数えられています。

奈良から平安期には陸奥国府のほか、鎮守府が置かれました。

現在は建物は何も残ってはいませんが国の特別史跡に指定され、

政庁跡や城碑、復元された塀などが残されています。

 

 

多賀城南門

「多賀城」の正門にあたる「南門」の建屋の復元が終わり、

門の両脇に取り付ける築地(ついじ)塀の工事に着手中で、

多賀城創建1300年にあたる2024年度の一般公開を目指しています。

 

政庁南大路跡

 

 

 

政庁南門跡

 

 

 

 

 

政庁正殿跡

 

 

 

10 多賀城碑 

 

多賀城南門のすぐそばに立つ1000年前に建てられた古碑。

壺碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれています。

「おくのほそ道」の旅で碑と体面した芭蕉は、

この碑だけは1000年前と変わらぬ姿を留めているのを見て、

「泪(なみだ)も落つるばかり也」と、

感動の文章を『おくのほそ道』にしたためています。

現在、多賀城碑と呼ぶこの碑は、江戸時代初めに発見され、

すぐに「壺碑」の名で呼ばれました。

「壺碑」とは、平安時代の終わり頃から歌に詠みこまれた歌枕で、

西行や源頼朝などの和歌で有名です。

徳川光圀は、碑が苔むした状態であることを知り、

仙台藩主伊達綱村に対し、碑を保護する覆屋の建設を勧めます。

これを受けて間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで碑が守られています。

 

 

 

 

 

 

壺碑のすぐそばに芭蕉が塩釜で読んだ俳句の句碑がありました。

「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」 芭蕉