2021年JAF全日本ダートトライアル選手権第8戦(今季6戦目 最終戦)
「NANO TOPカップ ダートトライアル in タカタ」
「旅の途中」
CMSC選手結果 https://ameblo.jp/cmsc-yokohamasugar/entry-12706947063.html
大会のひとコマ https://ameblo.jp/cmsc-yokohamasugar/entry-12706949990.html
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10月21日(木)の夜、新宿から夜行バスで岡山駅に向かった。
バスタ新宿
オリオンバスは21時20分発。
コロナ感染防止のためシート隙間と通路両側にはカーテンが付けられていた。
途中工事渋滞で20分遅れ、岡山駅には22日(金)早朝7時到着。
このバスは岡山から更に瀬戸大橋を渡って高知まで行く。
Ⅰ 行きの寄り道
岡山駅でCMSC本部香川県在住の田中昭男さんにピックアップしてもらい、
田中さんのクルマで途中寄り道をしながら、タカタを目指した。
1 三原城 (続日本百名城 広島県三原市)
三原城は永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景が築城した。
瀬戸内海に面した地に島を繋いで築かれた、いわゆる「海城」である。
満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから別名「浮城」とも呼ばれていた。
山陽新幹線三原駅が本丸跡地にできた。
現在は城の遺構は駅前に天主台の石垣と内堀を残すのみである。
天守台へは三原駅構内から入るようになっている。
堀には世界的に有名な阪井養魚場(三原市)が育て放流したブランド錦鯉が泳いでいた。
天守台には天守は築かれず、隅に二層櫓が築かれた。
今は何もなく公園になっている。
2 新高山城(にいたかやまじょう 続日本百名城 広島県三原市)
小早川家の養子となった毛利元就の三男隆景が、天文21年(1552年)築いた。
山全体が要塞化した断崖絶壁の山城。
隆景は後に五十二万石で筑前国名島城に移封となるが、
養子の秀秋に家督を譲り隠居すると、慶長元年(1596年)には三原城を隠居城として大改修した。
この時、新高山城の石垣の石は三原城に移された。
新高山城跡登山道入口
番所跡
匡真寺(きょうしんじ)跡 小早川家の菩提寺。
ここで隆景が父・元就の七回忌や、母・妙玖の33回忌法要を執り行った。
今は建物は残っておらず礎石が残されているだけ。
本丸跡 登り口から40分かかった。
山頂付近には、本丸や中の丸、東の丸、北の丸、西の丸など城の中枢部が築かれている。
二の丸跡
3 「大和ミュージアム」(正式名称は呉市海事歴史科学館 広島県呉市)
戦艦「大和」を建造した軍港、日本一の海軍工廠のまちとして栄え、
戦後は、世界最大のタンカーを数多く建造する明治以降の「呉の歴史」と造船・製鋼を始めとした
各種の「科学技術」を紹介する博物館。
館内展示の目玉は1/10スケールの戦艦大和。
入館料大人500円
(今回は時間の都合で外だけ見学)
大和波止場
大和ミュージアム海側の大和波止場は実物大の戦艦「大和」の甲板をイメージした公園。
大和ミュージアム海側の芝生広場には潜水調査船「しんかい」が展示されている。
4 海上自衛隊呉資料館 愛称「てつのクジラ館」 (広島県呉市)
潜水艦あきしお。
全長76.2m、重さ2,250t、1986年から2004年まで、実際に海上自衛隊で使用されていた本もの。
1985年に進水、2004年3月に除籍、2006年9月に呉史料館に展示された。
この実物の潜水艦に乗艦して、艦長室や士官室などの生活の一部が見学でき、
潜航中の環境や生活を疑似体験できる。
入館料無料。(今回は時間の都合で外だけ見学)
5 広島市内で中島律さんと再会
右)中島律さんとは6年ぶり。左はCMSC本部香川県在住の田中昭男さん
中島律さんは元CMSC広島の会員。
コドラは元CMSC広島・野村左江子さん。
1998年WRCニュージーランドラリーに参加、 総合39位 グループN 12位。
この年は小生もメディアとして自費参加した。ラリーアートの出張ではない。
6 原爆ドーム
昼間の原爆ドームは何回も見ているが、夜の原爆ドームは初めて。
この後安芸高田の道の駅へ。23時到着。そのまま車中泊。
Ⅱ 帰りの寄り道
タカタ終了後は松江~米子経由で岡山に戻ることにした。
1 松江市内でCMSC島根・国谷益雄さんと再会
国谷さんとは2年ぶり。
2 松江城(日本百名城 島根県松江市)
夜の松江城は初めて。
全国で現存する12天守の中の一つで、2015年(平成27年)7月に国宝に指定された。
松江城入り口で迎えてくれるのは、戦国武将として名を馳せた「堀尾吉晴(よしはる)」の銅像。
その息子・忠氏(ただうじ)が、関ケ原の合戦で功績を挙げたことにより、
堀尾氏は月山富田城(安来市広瀬町)に入り出雲国を治めていった。
しかし、立地や交通の便などが悪く、統治をより良くするため城地移転を計画。
宍道湖の東端に位置し、城下町を見晴らすことができる亀田山に、
5年の歳月をかけ1611年(慶長16年)松江城を完成させた。
吉晴の孫・忠晴(ただはる)が初代城主となり、その後、京極氏、松平氏と松江城の歴史を繋いでいった。
3 JR米子駅
2020年9月から駅舎リニューアル工事中。
写真左の更地が旧駅舎跡。2023年春新駅舎開業予定。
仮駅舎
米子は、山陰鉄道発祥の地。
鉄道発祥の地のモニュメントらしいのだが、
SLが客車2輌を牽引して飛び上がろうとするモニュメントはどう見ても銀河鉄道999。
4 米子城(続日本百名城 鳥取県米子市)
山の上が米子城跡
米子で1泊後翌朝(10月25日(月))攻城した。登り口から本丸まで徒歩20分。
江戸時代の天正19(1591)年頃に戦国武将・吉川広家が米子城の建設を始めた。広家は毛利元就の孫。
毛利元就(もとなり)の次男元春が吉川家の養子となり家督を継いだ。元春の三男が広家。
ちなみに元就の長男の隆元が宗家を継ぎ、三男隆景は小早川家に養子に行き毛利両川 体制を築いた。
広家は関ケ原の戦いで、本家の毛利家の存続を図るため、
西軍の総大将・毛利輝元(元就の孫、隆元の嫡男)とその軍勢を大坂城に留め置き関ヶ原に出陣させず、
毛利両川のもう一方である小早川秀秋の裏切りを誘発させて東軍勝利に導いた。
関ヶ原の敗戦後、毛利家は120万余石から36万9000石という大幅な減封処分を受けて
屈辱を強いられるものの、長州藩として家名は保った。
毛利家ではこの屈辱を代々伝えて決して忘れず、その執念が250年の時を経て、
倒幕の中心となって日本の歴史を大きく動かす原動力になった。
いわば、関ヶ原の戦いでの吉川広家の「裏切り」が、「明治維新」という実を結んだともいえる。
現在の米子城跡は、かつての石垣をとどめるだけとなっている。
二の丸入り口枡形虎口
三の丸跡 発掘調査中。
天守台石垣
鉄門跡
本丸跡(天守台)
5 お菓子の壽城(鳥取県米子市)
米子道米子ICを降りると眼前に立派なお城が見える。
米子城天守閣を模して造られた建物で、
オリジナルのお菓子の製造販売と山陰の名物を扱う「お菓子の壽城」と言うお店だった。
6 金持神社(かもちじんじゃ 鳥取県日野郡日野町)
昔、黄金より勝るといわれた「玉鋼」の産地で、景気がよい名字「金持」姓のもとになった地に建つ神社。
隠岐から脱出した後醍醐天皇に従った忠臣、金持景藤が戦勝を祈願したと伝わる。
金持神社は全国に八万社ある神社でもただ一社しかない縁起の良い名前の神社。
縁起がよい名だけに全国からたくさんの人々が開運・金運を求めて参拝に訪れる。
宝くじ当選お礼参りの参拝者も少なくない。
7 備中松山城(日本百名城 岡山県高梁市)
江戸時代以前の天守が現存するのはわずか12城(※)のみ。
しかし、その中で山城として今もなお天守が残っているのは、この備中松山城だけ。
高所に浮かぶ、天空の名城と言われる。
※12城
弘前城(青森県) 松本城(長野県) 丸岡城(福井県) 犬山城(愛知県) 彦根城(滋賀県
)姫路城(兵庫県) 松江城(島根県) 備中松山城(岡山県) 丸亀城(香川県)
秋葉重信が延応2年(1240年)に築城したのが始まり。1575年には毛利輝元が城主になった。
1642年から水谷家が城主となり、1694年水野家断絶の後、播州赤穂の浅野内匠頭が備中松山城を接収。
大石内蔵助が城の受け取り城代として1年間在藩した。
最も高い所に天守が現存する山城。(標高430m)
城見公園の駐車場に車を置いて、ふいご峠までシャトルバスで行く。
往復400円。
ふいご峠から小松山城址まで登山すること20分。あいにくの雨。
大手門跡(下からの写真)
大手門跡(上からの写真)
三の丸(平地部)
天守
二の丸から見た天守
二重櫓
天守の北側、岩盤の上に石垣を築き造られている。
8 岡山市内で高橋伸治さんと再会
水島モータース社長の高橋さんとは3年ぶり。
JAF加盟クラブ チームオレンジオブ岡山の代表であり、JMRC中国の運営委員も務めている。
応接室のオブジェがかわいい。
9 岡山から東京へ
10月25日(月)岡山駅前23時20分発のオリオンバス。
バスタ新宿には26日(火)渋滞に巻き込まれて30分遅れの9時に到着。
9時間のバス旅でした。