2017年JAF全日本ダートトライアル選手権第6戦
「ダートスプリント in 門前」
大会のひとコマと旅の途中
その2 (大会前後の寄り道)
1 高山~飛騨古川

① 7月27日(木)夜8時横浜の自宅を出発。高速を使わず国道20号線など下道を6時間かけて、松本から高山に抜ける国道158号線沿い、新島々の先にあるいつもの「村の駅・アルプスの里」に到着。3時間の仮眠後、朝を迎えました。この先に「道の駅風穴の里」がありますが、道の駅より利用者が少なく静かなので重宝しています。28日(金)5時に起きて、一路高山へ。


②③ 高山宮川朝市には7時に到着。朝市の人通りまだまばらですが、年中無休毎日7時から12時まで露店が並びます。


④⑤ 早速 いつもの谷口稔子さんの店に行き、しばし談笑しながら赤カブ刻み漬けなどを購入しました。

⑥ 小一時間の滞在で8時には高山を出発。次に飛騨市古川の浜田雅郎さんを訪ねました。
浜田さんは45年前勤務先の先輩で、小生の結婚式の司会を引き受けてくれた人。浜田さんが1992年に古川に引っ越してからも、時々お邪魔して交流を続けています。今回は5年ぶりの訪問で、小一時間の短い滞在時間でありましたが、十分旧交を温めることができました。
2 倶利伽羅峠古戦場
(富山県小矢部市と石川県津幡町の県境)


①② 倶利伽羅峠は加賀、越中の国境にある標高260mの峠。今から約800年前、源平の争乱の頃、木曾で挙兵し勢力を伸ばす木曾義仲と、都から侵攻した平維盛の軍が越中と加賀の国境砺波山(倶利伽羅山)で戦う、これが平家物語にも記される倶利伽羅合戦です。


③ 火牛の計(像) 義倶利伽羅峠の合戦において、義仲が角に松明を結びつけた数百頭の牛を放って、平家の軍勢を谷底に追い落としたと言われています。
④ 源平倶利伽羅合戦・平家本陣跡
義仲が本陣を置き戦勝を祈願した埴生護国八幡宮に日本最大級の義仲騎馬像が建っていますが、時間の都合で行けなかったので次回に宿題にします。


⑤ 平行盛が陣を張った場所
⑥ 倶利伽羅峠の合戦で戦死した兵の霊を弔う源平供養塔


⑦ 当時の面影を残す北国街道 木曽義仲や松尾芭蕉もここを通ったと思うと、時空を超えて今まさに歴史の1ページに立ち会っているという気持ちになり、感慨深いものがあります。
⑧ 芭蕉塚 「義仲の寝覚めの山か月悲し」
句意は 「この山は昔、木曽義仲が夜半の寝覚めにふり仰いで月を見た山なのか。月は今哀愁を含んで、白々と山を照らしている」
この句は後に訪れた越前の燧ヶ城で詠んだものですが、義仲の生涯を偲び詠んだとされます。


⑨ 葵塚
⑩ 巴塚
葵と巴はともに義仲の愛妾であり武将でもありました。葵は倶利伽羅峠合戦で討死、この地に葬られました。巴は義仲が討たれる日まで戦い、のちに尼になり越中で91歳の生涯を閉じたとされています。大津の義仲寺には義仲の墓に並んで、左に巴(巴御前)の墓、右に松尾芭蕉の墓があります。
3 日本百名城 高岡城
高岡城は加賀百万石藩祖前田利家の嫡男、前田利長が、自身の隠居城富山城が城下からの出火により建物の大半が焼失したため、新たな隠居城としてこの地を選び築城に着手したものの一国一条令により、未完成のまま5年後に廃城になった城。城は広大な水掘りに囲まれ本丸・二の丸を囲む掘幅は50mを超える規模となっています。


① 本丸広場
② 前田利家候銅像 本丸広場の東端にあります。

③ 本丸と二の丸をつなげる土橋には、築城当時の石垣が今も残ります。


④⑤ 高岡城は3つの水濠に囲まれ、その面積は全体(東京ドームの4.5倍)の1/3を占めています。

⑥ 南外堀から200m先に大佛寺の高岡大仏。諸説ありますが日本三大仏のひとつ。あとの二つ、奈良の大仏(東大寺)と鎌倉の大仏(高徳院)は誰もが認める三大仏です。高岡は銅器の技術が伝統産業でした。
4 日本百名城 七尾城

① 七尾城は標高約300mの山上に築かれた能登守護畠山氏の居城。この城を上杉謙信が10ヶ月におよぶ攻防の末やっと陥落させた。その後、織田信長の侵攻によって能登は征服されて前田利家に与えられ、利家が金沢城へ移った後、七尾城は廃城となりました。





②③④⑤⑥ 七尾城は単なる立てこもりの砦ではなく、日常的な政治や生活をした拠点城郭で、多数の屋敷地が集結した「山上都市」です。
5 氷見市(富山県) 忍者ハットリくんの街


① 氷見市は忍者ハットリくんの作者藤子不二雄Ⓐが生まれた町。氷見市比美町商店街は「忍者ハットリくんロード」とよばれています。
② 藤子不二雄Ⓐ生家のある光禅寺では藤子不二雄Ⓐキャラクターの石像が出迎えてくれました。
6 海王丸パーク(富山県射水市)


①② 帆船海王丸は1930年(昭和5年)竣工。約半世紀にわたり「海の貴婦人」として親しまれ、1989年(平成元年)に引退。現在は海王丸パークに係留されています。海王丸2世がその後を引き継いでいます。姉妹船として日本丸(初代は横浜みなとみらいに係留)があります。

③ 実は5年前三河湾で海王丸2世に遭遇したことがありました。
7 松尾芭蕉「奥の細道」ゆかりの地
放生津(ほうじょうづ)八幡宮(富山県射水市)~市振


①② 放生津八幡宮の前の海岸は奈古(那古)の浦と呼ばれ、古くから歌枕の地として知られています。海側は海浜の公園になっていて、かろうじて松の浜が美しい「奈古」の面影を残しているようですが、今は公園と海の間は臨海道路が走っていて、芭蕉時代の海のそばの松林の風情は残念ながらありません。


② この八幡宮境内に芭蕉句碑「早稲の香や分け入る右は有磯海」があります。
句意は「ここでは黄金色の早稲が一杯実っている。それをかき分けて進むと右に紺碧の有磯海(ありそうみ)が見えてきた」
③ 有磯海 雨晴(あまはらし)海岸は日本の渚百選に選ばれています。

④ 富山県下新川郡朝日町元屋敷、旧北陸道に面した民家の間にも同じ句の芭蕉句碑があります。

⑤市振は新潟県最西端のまち。奥の細道の芭蕉が北陸一番の難所・親不知を抜けて泊まった地。


⑥ 奥の細道 市振の宿桔梗屋跡
⑦ 長円寺芭蕉句碑
芭蕉が市振の宿・桔梗屋で詠んだ句が桔梗屋近くの長円寺にありました。
「一屋(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
句意は、「一軒の家に我々とともに遊女も寝ていた。まるで地上の萩と天井の月のような組み合わせだった」
8 親不知

① 親不知(おやしらず)は、新潟県糸魚川市の西端に位置する崖が連なった地帯。 正式には親不知(おやしらず・こしらず)といい、日本海の海岸の断崖絶壁に沿って狭い砂浜があるだけで、古くから交通の難所として知られています。
海にせり出しているのが北陸自動車道。


② 国道8号線は北陸自動車道の下の崖っぷちを通っています。
③ 江戸時代までは海岸の波打ち際を歩いていました。

④ 明治になって旧道が開通。今は整備されて「親不知コミュニティロード」として残されています。


⑤ 旧北陸本線旧親不知トンネル 1912年(大正元年)開通、1965年(昭和40年)複線化に伴い廃線。
⑥ 670mのトンネル内は解放されて歩くことができます。