2017年JAF全日本ダートトライアル選手権第3戦

「2017年東北ダートトライアル IN KIRIYANAI」




大会のひとコマと旅の途中


その1 大会前日まで




5月4日(木)夜。切谷内に向けて、まずは仙台行きの夜行バスに乗車。
翌5日(金)6時30分に仙台到着。山形に住む大学クラブ後輩の飯島治さんと合流。彼の車で一路多賀城へ向かいました。


1 日本百名城 多賀城(宮城県多賀城市)





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① 多賀城は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。東北地方を治めた古代律令国家の城。平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)とともに日本三大史跡に数えられています。
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地でした。
多賀城は仙台湾や仙台平野を一望できる丘陵上に立地し、約900m四方のいびつな四角形をしていて、周囲に築地や柵を巡らせていました。


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                       ② 政庁跡(空撮写真)



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③④ 政庁復元模型図
多賀城の中央に位置する政庁は正殿を中心に後殿、脇殿(左右)などの建物や築地で構成されています。一辺100mの築地塀で囲われ、重要な政務や儀式が執り行われました。





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⑤ 正殿跡
中央にある正殿跡は、建物の大きさがわかるようにコンクリートで土台が復元整備されています。

⑥ 正殿推定復元図




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⑦ 外郭南門跡  外郭南門は政庁の南300mmに位置する言わば多賀城の正門でした。
⑧ 南門推定復元図。この門は多賀城の正面を飾るため、屋根が二重になっている立派な門でした。




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⑨ 多賀城の中枢部である政庁から多賀城の正門である外郭南門を結ぶ南北にまっすぐに伸びる、多賀城の中で最も重要な道路。
 





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⑩⑪ 多賀城碑。今も外郭南門跡に建つ多賀城碑に724年に創建され、762年に修造されたことが刻まれています。石碑は碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立です。雨露を凌ぐ覆屋は明治に建てられたもの。
碑は歌枕「壺碑」(つぼのいしぶみ)としても有名で、元禄2年(1689年)旧暦5月8日(新暦6月24日)、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中で「壺碑」に対面して、その時の感動を紀行文「おくのほそ道」の「壺の碑の章段」に「疑なき千歳の記念 今眼前に古人の心を閲す」と書き残しています。


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⑫ 多賀城碑の傍らに建つ芭蕉句碑。碑面上部には「あやめ草 足に結ばん 草履の緒」
下面には「おくのほそ道」の「壺の碑」の章段が刻まれています。経年劣化でほぼ読めませんでした。
⑬ 「つぼのいしふミ」と刻まれた道標。こちらは何とか読めました。
 




2  末松山 沖の石(宮城県多賀城市)







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①② 「壺の碑」を見た芭蕉は末の松山を訪ねました。
末松山宝国寺の本堂の奥に樹齢470年を越える「末の松山」の老松が亭々とそびえています。

 
 


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③ 老松のすぐ下に、三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ、百人一首でお馴染みの「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の歌碑が見られます。末の松山は多くの歌人に親しまれた、みちのくを代表的する、恋愛を象徴する歌枕ゆかりの地です。
元禄2年(1689年)旧暦5月8日(新暦6月24日)、ここを訪れた芭蕉は、丘の上に松がそびえ、その下には墓が立ち並ぶ姿を見て、「はねをかはし枝をつらぬる契の末も終はかくのごとしと悲しさも増いて」と無常観を感じたことを「おくのほそ道」に記しています。
 




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④⑤ 「末の松山」から南へ抜ける道を下っていくと、池の中に奇岩が幾重にも連なった「沖の石(沖の井)」が見えてきます。

今では住宅地に囲まれた池と奇岩ですが、二条院讃岐の歌「わが袖はしほひに見えぬおきの石の人こそしらねかわく間もなし」(千載和歌集) 百人一首で知られる歌枕の地です。小野小町も「おきのいで 身をやくよりも かなしきは 宮こしまべの わかれなりけり」と詠んでいます。
芭蕉もこの歌枕の地を訪れています。
 




3 塩釜神社(宮城県塩釜市)




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① 鹽竈神社は中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。
② 左宮・右宮の拝殿




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③④ 文治の燈篭
芭蕉は、元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)、塩釜から松島への舟行前に、塩釜鹽竈神社に詣でました。
芭蕉は左宮・右宮の拝殿脇に建つ鉄製の燈篭に目を遣り、扉に刻まれた「奉寄進 文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」の文字に釘付けとなりました。
文治3年(1187年)7月、奥州藤原三代秀衡の三男・和泉三郎忠衡が寄進した「文治の燈篭」。忠衡は、父秀衡の意志を継ぎ、最後まで忠義を尽して源義経を守りました。忠衡による燈篭寄進は、平泉の平穏と義経の無事を懇願しての行為であったことが推測されます。
義経を深く思慕した芭蕉は、道中、義経記などで伝えられる義経所縁の地で幾度も足を止めています。義経最期の地・平泉までわずか数日となった塩釜の地においては、忠衡に繋がる500年の記念物を目の当りにし、当然のことながら感慨を深くしました。芭蕉は「おくのほそ道」で、忠衡を「勇義忠孝の士」と称えています。



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⑤⑥ 国の天然記念物 八重桜の一種「鹽竈桜」(しおがまざくら)が丁度満開でした。



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⑦⑧ 芭蕉船出の地
元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)塩釜神社参拝後、このあたりから松島に向けて出港しました。


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⑨ 我々も芭蕉を追って陸路松島に向かいましたが、途中で「腹が減ってはいくさができぬ」と松島名産のカキ尽くしのランチ。
 





4 日和山(ひよりやま)公園(宮城県石巻市)



肝心の松島はGWの道路渋滞で、なかなかたどり着けず。先を急ぐので、松島は5月8日(月)切谷内から仙台の帰り道に立ち寄ることにして、石巻市の日和山に向かうことにしました。






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① 日和山は市内中心部の旧北上川河口に位置する丘陵地で、中世には奥州総奉行葛西氏の城「石巻城」があったと伝えられています。かつて松尾芭蕉も訪れたこともあるこの日和山は、石巻市内を一望できる場所としても知られており、眼下に流れる旧北上川の河口からは広く太平洋が広がり、天気が良い日は、牡鹿半島の他、遠く松島や蔵王の山々などを見ることができます。



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② 日和山公園からの眺望  旧北上川河口と日和大橋
③ 2014年4月訪問時
④ 2011年東日本大震災前
3枚の写真を並べると、復興が少しずつ進んでいるのが分かります。



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⑤ 鹿島御児神社 日和山の頂に鎮座する鹿島御児神社。安産の神、海上安全の守護神。
⑥ 「奥の細道」の標柱。芭蕉は元禄2年(1689年)5月10日(新暦6月26日)石巻に到着。その日のうちに風光明媚な日和山を散策しています。


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⑦⑧ 芭蕉句碑 鹿島御児神社右手前境内にありました。
「雲折々 人を休める つきみかな」





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⑨ 芭蕉と曽良の像。
日和山の旧北上川河口側に、芭蕉と曽良の像が建っています。師弟の見つめる先には、「おくのほそ道」の旅で最大の山場を迎える平泉があります。我々も芭蕉を追って、平泉に向かうことにしました。

 



 

5 平泉 中尊寺(岩手県一関市)




 
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① 16時半を過ぎ、閉門の17時まで急ぎ足で中尊寺を参詣。参道の月見坂は本堂まで560m、金色堂まで800m。結構きつい上り坂が続きます。




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②③ 月見坂半ばにある中尊寺本堂にお参り。





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④ 金色堂 中に入る時間なし。外からの見学にとどめました。






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⑤ 中尊寺入口の武蔵坊弁慶の墓。
⑥ 武蔵坊弁慶立往生旧跡  弁慶の墓から道を挟み、平泉レストハウスの建物の裏の駐車場にあります。



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⑦⑧ 碑の右後には弁慶力石と弁慶桜があります。
全国至るところに、義経の腰掛石とか、弁慶が持ちあげた弁慶力石というものがあります。
弁慶桜は弁慶が立ち往生した背後のサクラの木でしょうか?


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⑨ 「源義経衣川古戦場跡」の石碑 これも駐車場の一角にあります。 
⑩ 駐車場に隣接する平泉文化史館前にある義経弁慶の辞世の句の看板。




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⑪⑫ 奥の細道・記念碑。駐車場と平泉文化史館の間に建てられています。


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⑬ 隣り合わせに「芭蕉 奥の細道紀行 奥州岩手路最北端  折り返し地 平泉の地」と書かれた石碑があります。 奥の建物が平泉文化史館。


18時を過ぎて大分日が暮れてきました。この辺で芭蕉ゆかり地・句碑めぐりはひとまず終わりにして、東北道で八戸に向かいました。