CMSC京都 会長交代
旅の途中
その3 松尾芭蕉ゆかりの地と句碑を訪ねて 後編/大津・京都
1 大津/義仲寺(ぎちゅうじ)(滋賀県大津市)


①② JR膳所駅・京阪電鉄膳所駅の北約300m、旧東海道沿いの街中に佇む寺院。
義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)(1154-84)をここに葬ったことに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。
江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われています。
実は、義仲寺には昨年2月にも訪れた(http://blogs.yahoo.co.jp/kentaro_sugar/17798775.html)のですが、休館日だったので中に入ることができず、今回リベンジとなった次第です。


③ 義仲寺古図 今では義仲寺の周囲は家がぎっしり建て込んでいますが、かつては琵琶湖に面した景勝の地だったことが伺われます。
④ 松尾芭蕉の墓。義仲の墓の右隣りに芭蕉が眠っています。芭蕉は生前、弟子たちに、自分が死んだら「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言していたことにより、遺骸は亡くなった大坂南御堂から淀川を遡って運ばれてき、近江の義仲寺に葬られました。
芭蕉は、短くも激しい人生を駆け抜けた義仲の情に厚くまっすぐな生き方に、心を寄せたのだと思います。また琵琶湖周辺の美しい景観も深く愛し、たびたび「義仲寺」に身を寄せていました。

⑤ 『旅に病て 夢は枯野を かけめぐる』 芭蕉の辞世の句
句意は、旅先で死の床に臥しながら見る夢は、ただあの野この野と知らぬ枯野を駆け回る事。夢の中ではまだ枯野をかけ廻っているのだけれど、病に倒れた私はもう旅に出ることも出来ないので悲しい。
芭蕉が「病中吟」とわざわざ付けていることからこの句を詠んだ時点では、本人はまだ旅を続けるつもりだったと考えられます
同じ句が大阪・南御堂にもあります。南御堂の句碑は昨年2月にレポート済みです。(http://blogs.yahoo.co.jp/kentaro_sugar/17798775.html)

⑥ 『行く春を おうみの人と おしみける』
琵琶湖のある近江の国の春の美しさを近江の人たちと過ごし、行く春を近江の人たちと惜しんだのである。芭蕉にとっても、近江の人たちにとっても充実した春でした。


⑦ 木曽義仲の墓。ここに義仲が眠っています。ただし胴体だけ。首は京都法観寺(八坂の塔がある寺)内「木曽義仲首塚」にあります。 義仲・芭蕉の墓の後ろが芭蕉が滞在した無名庵(むみょうあん)。
⑧ 巴塚。木曽義仲の側室だった巴御前の供養塔。義仲の墓の左隣に並んでいます。
木曽義仲は平家討伐の兵を挙げて都入りし勢力をふるうも、後白河上皇と対立。その後、源頼朝軍に追われ討ち死にしたとされています。享年31歳。その義仲を供養するため現れた尼僧が、巴御前の後身だったといわれています。

⑨ 『木曽殿と背中合わせの寒さかな』
元禄四年(1691年)伊勢の俳人島崎又玄(ゆうげん)が義仲の墓の背後にある無名庵に滞在している芭蕉を訪ねたときに詠んだ句。芭蕉の生前に読んだ句なので、義仲と芭蕉の墓が並んでいる様を読んだ句でありません。

⑩ 境内の一番奥に佇む翁堂。


⑪ 翁堂の正面祭壇には芭蕉翁座像があり、左右の壁には三十六俳人の画像も掲げられています。ここにも、たびたび義仲寺を訪れた芭蕉の軌跡が感じられます。
⑫ 天井には2016年・生誕300年を迎えた伊藤若冲の天井図『四季花卉図』があります。多作な若冲でしたが天井図は全国2ヵ所にしかなく、非常に貴重な作品となっています。若冲最晩年の作品で、キクやシャクヤク・ハス・ボタン等の草花が描かれた板絵15枚で構成。

⑬ 突然総勢30人ほどの大行列が門前に現れました。阪急交通社主宰の「東海道53次を歩くツアー」で、本日はJR大津駅を出発して旧東海道をJR草津駅までの14kmを歩くツアーだそうです。先を急いでいるようで、結局義仲寺には門だけ見て、境内に入らずに歩き去りました。
2 JR東海道・石山駅/京阪電鉄・石山駅(滋賀県大津市)


①② 駅前の立体広場2階に「東海道を旅する松尾芭蕉像」があります。
芭蕉が大津(当時は近江)で詠んだ句は、芭蕉の全発句の約一割にあたる89句にのぼっています。近江は、生涯を旅に生きた芭蕉が自らの意志によって選んだ故郷といえるのではないでしょうか。近江には芭蕉の心を動かす様々な歴史や、四季折々に移り行く琵琶湖の美しい景色があり、心を通じた近江の門下生や友人がいたからだと思います。
では芭蕉師匠とのツーショットをカメラに収めて、このあと、1690年(元禄7年)、芭蕉が47歳の時4か月滞在した「幻住庵」に向かいます。
3 幻住庵(げんじゅうあん 滋賀県大津市)

① 幻住庵周辺案内図。 幻住庵は石山駅から約2km徒歩30分ほど南に行った先、国分山の中腹にあります。


②③ 幻住庵。1690年(元禄7年)、芭蕉が47歳の時4か月滞在しました。この幻住庵は1991年(平成3年)に再建されたもの。

④ 幻住庵の座敷には「奥の細道」書きだしの文『月日は百代の過客にて~』が書かれた掛け軸が飾られています。


⑤ 実際に立てられていた場所に幻住庵跡の碑
⑥ 幻住庵は国分山の中腹にある近津尾(ちかつお)神社の境内にあります。

⑦ 芭蕉句碑 『先(まず)たのむ 椎の木もあり 夏木立』
ここ幻住庵での生活を、「奥の細道」と並んで俳文の傑作と言われる「幻住庵記」に記しましたが、その末尾に書いた句です。
句意は 「永い漂泊の末にしばしの安住を求めてこの山庵に入って見ると、傍らの夏木立の中に大きな椎の木もあり、身を寄せ心を安ずるにまことに頼もしく、まず何はともあれ、ほっとする心地だ。」

⑧芭蕉翁経塚。 芭蕉句碑の右隣に立てられています。門人達が供養のために一石一字の法華経を書写して埋めたものと言われています。


⑨⑩ 庵への登り口に名文「幻住庵記」の原文が書かれた記碑がある。長さ約2m 天地40cmほどの大きく立派なもので、芭蕉の真筆を写真に撮り、陶板で復元したものです。 達筆に驚きます。

⑪ 「とくとくの清水」。芭蕉はこの水で自炊したそうです。お風呂は時々山を下りて下の農家の風呂を頂いたそうです(参拝当日すれ違った地元の人の談)
西行法師が吉野山の庵で暮らしていた時に、庵のそばから湧き出る清水について歌を詠みました。
『とくとくと 落つる岩間の 苔清水 汲みほすほども 無き住居かな』
この清水を西行の歌にちなんで「とくとくの清水」といい、芭蕉も6年前、吉野へ行った時に訪ねました。そして芭蕉はここ幻住庵の清水をも、吉野の「とくとくの清水」をなぞらえて、「とくとくの清水」と呼ぶことにしました。
4 京都/芭蕉堂(京都市東山区)


①② 芭蕉堂は、俳人である高桑闌更が松尾芭蕉を偲ぶために建てたものです。この地に建てられたのは、芭蕉が西行を慕っていた事から、西行庵の隣を選んで建てられたと言われています。

③ 堂内に高弟森川許六が彫ったといわれる芭蕉の像が祀られていて、芭蕉の命日には法要のあと句会が開かれています。

④ 2010年まではこの門は閉ざされていましたが、着物のレンタルやさんが営業を始めてから解放されました。
5 京都/西行庵(京都市東山区)


①② 芭蕉堂の隣に隻林寺(そうりんじ)があり、その中に花月庵(別名西行庵)があります。
左側の「不許葷肉入門内」の石碑は、「葷」はニンニク、ニラ、ネギなどを指し、葷や肉の入門は許さない修行の地であることを表しています。

③ 西行庵
平安末期の歌人・西行はここに庵を結び、有名な
『願わくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ』
の歌を詠みました。庵中には西行と弟子の木像が収められており、4月の吉日に西行忌が行われています。西行の時代からは千年近く経過しているので、当時の草庵が現存しているわけもなく、どこからか移築してきた建物のようです。
6 京都/落柿舎(らくししゃ 京都市右京区嵯峨野)


①② 嵯峨野は、いにしえから貴族や文人たちが都を逃れ、世捨人として侘び住まいしたところです。落柿舎は松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた草庵で、1691年(元禄4年)4月から5月まで松尾芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を著しました。
庭に柿の木が40本あり、その柿の実が 一夜のうちにほとんど落ちつくした。それが落柿舎の名の由来と書かれています。現在の建物は、明治初年に再興されました。

③ 外壁の箕と笠は主が在宅していることを意味しています。

④ 『五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡』
「嵯峨日記」の最尾にしるした芭蕉の句。
句意は 昔は豪華な建物だった落柿舎も、今は痛んで、壁には色紙を剥がした跡が残っている。外では優しい五月雨が降り続いている
「嵯峨日記」には、落柿舎での滞在中の生活や、向井去来や河合曾良(かわいそら)、野沢凡兆(のざわ ぼんちょう)といった弟子たちとの交流の様子が書かれています。芭蕉がわざわざ日記という形で残したことからすると、芭蕉は落柿舎で過ごした弟子たちとの日々は、よほど楽しいものだったのでしょうね。

⑤ 『柿主や こずえはちかき あらし山』
去来の句碑 句意は なぁ、柿主さん(去来のこと)よ。ここの柿は風が吹けば一夜で落ちるが、それもそのはずだ。梢の向こう、嵐山がすぐ近くだからな。


⑥⑦ 室内(再現)


⑧⑨ 台所(再現) 芭蕉は幻住庵同様、ここ落柿舎でも自炊生活をしたのでしょう。
7 京都/清滝(京都市右京区)

① 清滝付近案内図 清滝は嵐山から京都バス(市バスではありません)で15分。


② 赤い欄干の渡猿橋
③ 渡猿橋から下流方面左岸に芭蕉句碑があります。
京都の避暑地として有名な清滝は、四季折々の美しさを見せる景勝の地。初夏には新緑が輝き、蛍が飛び交います。清滝には、さまざまな文人が訪れています。松尾芭蕉や与謝野鉄幹・晶子、徳冨蘆花などが逗留し、清滝の美しさを称えました。

④ 『清滝や波に散り込む青松葉』
1695年(元禄7年)芭蕉51歳の作です。句意は. 幽邃な清滝渓流の青い波の中に、強い風に吹き散った岸の松の青葉がはらはらと散り込んでいる。

⑤ 元禄7年10月芭蕉翁辞世の句と記されています。死の3日前大坂の病床での改案で、こちらの句が芭蕉が本当に最後に詠んだ時世の句のようです。
8 京都/鳴滝(京都市右京区)


①② 鳴滝は、仁和寺の西方を流れる鳴滝川の三宝寺付近にかかる小さな滝。滝のたもとに、松尾芭蕉の句碑があります。

③ 『梅白し 昨日や鶴を 盗まれし』
芭蕉が42歳の時、鳴滝にある三井秋風(みつい しゅうふう:俳人で商人)の山荘を訪ね、咲いていた白梅にかけて詠んだ句です。白梅が見事に咲いて、宋代の詩人・林和靖(りんなせい)の庵に居るよう心地がするけれど、しかし(彼と一緒にいるはずの)鶴が見当たらない。昨日にでも盗まれてしまったのだろうか。

④ 句碑の裏に説明がありました。


⑤⑥ 帰り道、最寄りの福王寺バス停前にある「魚よし」に、「ちりめん山椒」の旗がなびいていたのでお土産に買いました。女将さんおすすめ、さっぱり薄味の京風味付けでした。