2016年JAFカップオールジャパンダートトライアル
JMRC全国オールスターダートトライアル in 中部
大会のひとコマと旅の途中
その2 (帰路寄り道)
1 関ケ原古戦場
今庄からの帰りは、まず今庄温泉でほこりを落とし、途中車中泊。翌朝関ケ原古戦場に立ち寄りました。9月全日本ダートラ第7戦今庄の行きにも駆け足で寄り道したのですが、もう一度ゆっくり見学。

① 決戦地。慶長5年(1600年)9月15日、豊臣秀吉亡き後次の政権を狙う徳川家康率いる東軍と、これを阻止するために挙兵した石田三成率いる西軍が、関ケ原を舞台に天下分け目の戦いを繰り広げました。決戦の開始は朝8時過ぎ。開戦当初は「鶴翼の陣」を引いた西軍が圧倒的に優勢でしたが、12時頃西軍小早川秀秋の裏切りで形勢は逆転。東軍優勢となると、14時頃東軍諸隊が三成の首を狙い三成陣営の目と鼻の先にあるこの地で激戦を繰り広げました。14時過ぎ三成が敗走して、天下分け目の戦いは開始よりわずか6時間で勝敗が決まりました。

② 徳川家康最後の陣地。家康は合戦開始から3時間後、最初の陣地(桃配山)から移動、三成陣地(笹尾山)の南西1キロの至近距離のこの地に陣を張りました。現在は陣場野公園に中にあります。ここから小早川秀秋に向けて寝返りを促すため発砲を命じたといわれています。

④ 床几場(しょうぎば)徳川家康進旗驗馘處。合戦勝利後この陣内の床几場で引見が行われ、武将たちが討ち取ってきた敵の首級が実検されました。「床几」とは尻の当たる部分に革や布を張った折り畳み式の移動用の簡易腰掛けのこと。


⑤⑥ 石田三成陣地。関ケ原を一望できる笹尾山に陣を構えました。三成は決戦前夜、付近の住民に「明日はここで戦いがあるから避難せよ」と言ったそうです。たまたま通りかかった地元の方が教えてくれました。代々地元の人にはいまだに三成に恩義を感じているようです。
2 大垣 松尾芭蕉 奥の細道むすびの地



①②③ 前回9月の今庄の帰路にも立ち寄った地。今回素通りせずに芭蕉翁を表敬訪問しました。
俳人松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)3月27日に、弟子の曽良とともに江戸深川芭蕉庵を旅立ち、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、『奥の細道』の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。


④ 奥の細道の旅を終えた芭蕉は、大垣の門人たちとの別れを惜しみながら「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」と詠んで、
⑤ ここ船町川湊から船で桑名、伊勢に向かい旅立ちます。
3 中山道 美濃赤坂宿

①美濃赤坂は江戸時代、中山道56番目の宿場町であると共に、石灰や大理石の産出で栄えた町。後ろの大きな塔は川港の灯台の役割を果たした常夜燈。ここでは中山道の美濃赤坂宿の夜道を照らす街灯の役目もありました。


② 「赤坂港跡」。常夜燈の下には川があり、江戸時代には川港が設けられて、周辺で産出する石灰や大理石の積出港として賑わっていました。
③ 赤い橋の下が「赤坂港跡」です

④ 今の美濃赤坂の街並み。ところどころに古い民家が散在しています。
幕末「公武合体」の政略により徳川家に嫁ぐことになった皇女和宮が京から江戸への道程で、赤坂宿は和宮一行の宿泊地と指定された為に、宿場の大改修工事が行われ、今に残る赤坂の町並みが出来上がりました。当時これを「お嫁入り普請」と呼ばれました。


⑤⑥ JR美濃赤坂駅。大垣駅を始点とする東海道本線美濃赤坂線の終着駅。
美濃赤坂は江戸・明治時代は舟運で賑わった町ですが、大正になって鉄道が敷かれ昭和の末まで鉄道が主流になりました。今では輸送の主役は自動車に代わり、時刻表を見ると昼間は1時間に1本の運行ダイヤです。
4 美濃赤坂 お茶屋屋敷跡


① お茶屋屋敷跡は美濃赤坂駅から西に徒歩5分、赤坂宿から南に一寸奥まったところにあり
ます。慶長9年(1604)、徳川家康が岐阜城の御殿を移築し、将軍が上洛の際将軍専用の宿泊所としたものだそうです。城郭的要素を持つ貴重な遺跡として、空堀や土塁などが残されています。
② 現在は牡丹園として一般開放されています。


③④ 牡丹の花は4~6月に咲きます。今咲いているのは寒牡丹。ところどころに咲いていました。


⑤ 一角にはよく手入れされた立派な竹林がありました。
⑥ 昭和の初めに建てられた家。牡丹園の今のオーナーの個人所有なので、見学NGでした。江戸時代はここには櫓が建っていたと思われます。
5 美濃赤坂 芭蕉ゆかりの寺ほか


① 法泉寺。元禄2年(1689年)秋「奥の細道」を終えた芭蕉は大垣滞在中に法泉寺に立ち寄っています。
山門の右手に芭蕉句碑があります。「草臥れてやどかる頃や藤の花」(笈の小文)
② 妙法寺。この寺には芭蕉の句碑はありませんが、大垣の芭蕉後援者が当時いろいろ寄進したそうです。住職の橘洋道さん(右)は、1980年代にダカールラリー(当時はパリ~ダカールラリー)に2輪で3回チャレンジ、2度完走したキャリアの持ち主。どこか松平健似。地元の行事にマツケン衣装でマツケンサンバを踊り拍手喝采されたそうです。

③ 美濃赤坂国分寺跡。この奥に再建された国分寺があり、その境内には「芭蕉翁」の碑があるそうですが、時間の都合で次回の訪問にしました。
美濃赤坂にはまだまだ芭蕉ゆかりの地がありますが、そちらへの訪問は次回の楽しみに残しておきます。
金生山明星輪寺/芭蕉句碑 「鳩の声身に入わたる岩と哉」
青少年憩いの森 /芭蕉句碑「苔埋む蔦のうつつの念仏哉」


⑤⑥ 照手姫水汲み井戸 。説教節や浄瑠璃の「小栗判官 照手姫」の伝説で知られ、青墓宿に売られてきた照手姫が主人から無理難題の苦役を強いられ、かごで水汲みをしたと伝えられる井戸の跡です。