2016年全日本ダートトライアル選手権第7戦


「スーパートライアル in 今庄」


大会のひとコマと旅の途中


その3 帰路


試合終了後、一目散には帰らず、途中もう1泊してノンビリ寄り道しながら帰ることにしました。


1 プレジャーレーシングサービス(岐阜県大垣市)
 

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① 表彰式が終わったのが18時10分。会場を出たのが18時30分。今庄の温泉で汗とほこりを落とした後、昨年に引き続き大垣に向かい、21時大垣到着。昨年の全日本ジムカーナDクラスチャンピオンの大橋渡さん()、CMSC愛知会長の吉野正則さん(右2人目)と一献することになりました。
左は大橋さんが経営するプレジャーレーシングサービスの看板娘・西居弘扇(にしいひろみ)さん。
 

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②③ お開き後はそのまま居酒屋「ありあけ」の店先駐車場で、大胆にも朝まで車中泊。写真は7時過ぎに起きて撮影。店先のベンチでパンに紅茶の朝ご飯を食べながら、まったりとした時を過ごしました。


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④⑤⑥⑦ その居酒屋「ありあけ」の前の道路を挟んで反対側に大橋さんのお店、プレジャーレーシングサービスがあります。何と3棟あって真ん中(⑤)が事務所兼ショールーム。左(⑥)は工場。右(⑦)はガレージ、資材置き場。10時開店なので大橋さんに会わず店の写真だけ撮って8時半にお暇しました。
 



2 大垣 松尾芭蕉 奥の細道むすびの地



俳人松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)3月27日に、弟子の曽良とともに江戸深川芭蕉庵を旅立ち、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、『奥の細道』の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。
「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟(ふね)の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらへて老(お)いをむかふるものは、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす」
――「月日というものは、永遠(えいえん)の時間を旅する旅人みたいなもので、やって来ては去っていく年月も、やはり旅人のようなものなのだ。舟の上で一生はたらく船頭(せんどう)さんも、馬をひいて年をとっていく馬方(うまかた)さんも、毎日の生活そのものが旅なわけで、旅を自分の家にしているようなものなのである」。



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①② 奥の細道むすびの地 は大垣船町川湊。 

 

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③ 船町川湊に佇む芭蕉翁()と木因翁像
④ 芭蕉翁像



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⑤⑥ 水門川 大垣城の外堀。


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⑦ 住吉灯台 船町川湊繁栄のシンボル。奥の細道の旅を終えた芭蕉は、大垣の門人たちとの別れを惜しみながら「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」と詠んで、ここ船町川湊から船で桑名、伊勢に向かい旅立ちます。
 


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⑧⑨ 四季の路
大垣駅横の愛宕神社(錦町)から奥の細道むすびの地(船町)まで、水門側に沿い2,2キロにわたり、遊歩道が整備され四季の路と呼ばれています。その四季の路には芭蕉が「奥の細道」の旅で詠んだ22の句碑が建てられています。せっかく大垣に来たので、ミニ奥の細道句碑巡りをしました。



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⑩⑪⑫ その最初の句碑は愛宕神社の前に、「行く春や鳥啼魚の目は泪」と江戸千住で読んだ句が矢立初め(旅の句の書き初め)の句として建てられています。


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⑬ 矢立初めの句碑の横の湧水。大垣市内至る所に湧水が見られます。  



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⑭⑮ 水門川小原橋付近。 「夏草や兵共が夢の跡」平泉で詠んだ句の句碑があります。



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⑯ 東外側橋付近 「さみだれをあつめて早し最上川」本合海(山形県新庄市)で読んだ句の句碑があります。
⑰ 花月橋付近  越後(新潟県出雲崎町)で詠んだ「荒海や佐渡によこたふ天河」の句碑。



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⑱⑲ 花月橋付近 八幡神社




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⑳㉑ 境内には芭蕉が大垣で詠んだ「折々に伊吹を見ては冬ごもり」の句碑。



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㉒ この句碑の傍にも「大垣の湧水」があって、名水を組みに来る市民がひっきりなし。



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㉔㉕ 圓通寺 芭蕉句碑 「こもり居て木の実草の実拾はばや」



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㉖ 竹橋付近には、芭蕉が加賀全昌寺(石川県加賀市)で読んだ句「庭掃きて井はや寺に散る柳」の句碑。
㉗ 大垣城竹橋口門跡


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㉘㉙ 桝工房「ますや」 大垣は桝の産地。



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㉚㉛ 大垣城。全国的にも珍しい4層の天守を持ち、「城下町・大垣」のシンボルとして市民に親しまれています。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍・石田三成の本拠地にもなり、本戦部隊が関ケ原に移動した後も壮絶な攻防戦が繰り広げられました。戦国の世が去った江戸時代、寛永12年(1635年)以降には戸田家11代が十万石の城主を続け、
戦火で焼失したものの、昭和34年(1959年)に再建されました。かつての大垣城は、水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、敷地にして現在の3倍以上、櫓の数は10を数える大変規模の大きな要塞だったと言われています。




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㉜ 四季の広場
㉝ 四季の広場からむすびの地(下流)方向を見た水門川。相当豊富な水の流れでした。



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㉞ 江戸文政時代(1818~30年)美濃路沿いに建立された道標「右 江戸道 左 京みち」。 高さ2mの相当な貴重な民俗文化財。



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㉟ むすびの地 蛤塚 「蛤のふたみに別れ行秋ぞ」の句碑。



芭蕉は長旅の疲れを大垣で癒し、門人たちとの別れを惜しみながら「蛤のふたみに別れ行秋ぞ」を詠んで、伊勢へ旅立ってゆきます。旅の終着は新たな旅の始まり。
芭蕉はその後も伊勢、伊賀上野、京都、大津などを渡り歩き、江戸に帰ったのは翌々年の元禄4(1691)年のことです。

しかし、 では、なぜ大垣が『奧の細道』の結びの地となったのでしょうか。
それは、芭蕉が大垣を愛していたからです。大垣には谷木因をはじめ、藩士にも町人にも熱狂的な芭蕉ファンが多くいました。芭蕉は10年間に4回も大垣を訪れ、土地とその人びとの間に濃密な結びつきを持っていた。だから、旅を終えて5年後にようやく脱稿した『奧の細道』の結びの地として大垣を位置づけたのでした。

また、大垣は美しい自然に恵まれ 自噴水も湧き出す水の都です。
加えて大垣は東西交通の要衝にあり、旅に便利な土地で、陸上は中山道や美濃路という整備された街道が通じ、水上は水門川の船町湊から水運によって各地へ旅することができました。
 



 
3 岐阜市の横山賢司さん

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① 大垣を後に岐阜市の横山賢司さんを訪ねました。横山さんとは大学卒業、就職前の春休みに愛媛県松山市の旅行先で知り合って以来44年もの長いお付き合い。小生がもっぱら岐阜にお邪魔しています。
横山さんは元公務員。仕事も引退して今は空いた時間にペーパークラフト作りに精を出しています。1時間半の情報交換でお互いの元気を実感しました。次の再会まで元気でいられることを祈って横山邸を後にしました。
 




4 愛知県尾張旭市の尾関一さん



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① 旅の最後の訪問先はレースカメラマン歴40年を誇る尾関一さん。3年半前には泉谷玄太郎さん(行きの旅の途中で訪問しました)と3人で飲んだこともありました。その直後に突然自宅で倒れて救急車騒ぎ、一命を取り留めたこともありましたが、不死鳥のごとく甦り、今では元気に仕事を続けています。今回は本当にわずかな時間しかないので、ご自宅に寄りご挨拶。尾関さんの仕事部屋でお互いの健康を確認しながら立ち話程度でお暇し、帰宅の途に付きました。





5 後日談 東京千住 奥の細道 矢立ての初めの地
 

  

大垣 奥の細道 結びの地 をめぐって2週後の9月20日に、東京千住 奥の細道 矢立ての初めの地(初めの一句を詠んだところ) を訪ねるチャンスがありました。
「おくのほそ道」によれば、元禄2年(1689年)3月27日、松尾芭蕉翁は慣れ親しんだ深川を後にして千住より奥州へと旅立ちました。

「千じゅと云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
『行く春や 鳥啼 魚の目は泪』

是を矢立の初として、行く道なをすゝまず。人ゝは途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送るなるべし。」
 




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①② 国道4号線日光街道を荒川区・足立区の区境を流れる隅田川に架る千住大橋を渡った先(足立区)のすぐ左にある小さな緑地に矢立の地の記念碑があります。写真①では足立区側から千住大橋を見ているので、手前が足立区、橋の先が荒川区になります。



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③ 記念碑の後ろには大きな「おくの細道 工程図」パネルがありました。

実はこの公園内には『行く春や鳥啼 魚の目は泪』の句碑があったのを、残念なことにその時は気が付かず、後で知りました。




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④ 矢立の初めの地から国道4号線を少し下った右側に東京卸売市場足立市場があります。その入り口の門の脇に「千住宿奥の細道プチテラス」なる場所があり、句を詠む姿をかたどった芭蕉像がありました
⑤ 芭蕉翁と記念撮影。芭蕉翁の後ろには芭蕉の木が植えられていました。