歌舞伎の演目の1つにもなっている、家康の家臣・酒井忠次の逸話「酒井の太鼓」。この逸話は何という戦いの際のもの?

三方ヶ原の戦いです。

「との、黙阿弥どのの演目など、この国盗りクイズのプレイヤーの方のうち何人がご覧になったことがありましょうの?」

「うむ、昔の歌舞伎座で見た話にはこういう戦国時代の題材はなかったなあ、江戸時代の話か平安時代の話しか記憶にないぞ。」

「新しい歌舞伎座になってから一度も歌舞伎を見に行ってないですじゃ。」


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「そろそろ見にいくかの?」

「ですじゃですじゃ!\(^o^)/」

徳川家康が生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦いにおいて、武田軍に追われた家康は浜松城に逃げ込み、城門をすべて開いたままにしました。その後、城内では仲間を鼓舞するために酒井忠次が太鼓を叩き、その音を聞いた武田軍は「これは城に引きいれる罠だ」と思い兵を引き返したと伝えられています。これが「酒井の太鼓」と呼ばれる逸話です。

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「酒井の太鼓」の正式名称は
「太鼓音智勇三略」(たいこのおとちゆうのさんりゃく)

歌舞伎狂言。時代物。4幕。別名題《世響太鼓功(よにひびくたいこのいさおし)》。通称《酒井の太鼓》。河竹黙阿弥作。1873年3月東京村山座初演。配役は酒井左衛門・鳥井忠広を河原崎権之助(のちの9世市川団十郎),鳴瀬東蔵を5世尾上菊五郎。《三河後風土記》に材をとる。武田勢にかこまれた浜松城の徳川方が敗色濃くなったとき,城を預かる酒井左衛門忠継がわざと大酔,城門を開き,篝火(かがりび)をたき雲霞のごとき武田勢を眼下にして,臆せず城の櫓の太鼓を打ったので,城門まで押しよせた馬場美濃守は城中に深謀あるを信じて引きあげる。

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河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ もくあみ)。江戸日本橋生まれ。

立作者になってからもしばらくは鳴かず飛ばずだったが、四代目市川小團次と出逢ったことが大きな転機となる。嘉永7年(1853年)に小團次のために書いた『都鳥廓白波』(忍の惣太)は大当たりとなり、これが出世作となった。幕末には小團次との提携により『三人吉三廓初買』(三人吉三)や『小袖曾我薊色縫』(=『花街模様薊色縫』、十六夜清心)などの名作を次々に発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛』(切られお富)、十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)などを書き、引っ張りだことなった。

慶応2年(1866年)に小團次は死ぬが、明治維新後もその筆は衰えなかった。この時代には明治歌舞伎を牽引した團菊左と不可分の作者として活躍する。この時期の代表作としては五代目尾上菊五郎に書いた『天衣紛上野初花』(河内山)、『茨木』、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)、初代市川左團次に書いた『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)、九代目市川團十郎に書いた『北条九代名家功』(高時)、『紅葉狩』、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)など、枚挙に暇がない。

Wikipedia

黙阿弥の歌舞伎なんて知らない、と思うかもしれませんが、その作風、セリフはみんな一度は耳にしているはずです。例えばこういう説明がWikipediaにあります。

黙阿弥の作品の特徴としてまず第一にあげられるのが、俗に「黙阿弥調」とも呼ばれる華美な科白にある。たとえば『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚の場」の「厄払い」と呼ばれるお嬢吉三の独白は、「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空……」と朗々と唄い上げる極めて洗練されたもので、しかも類語や掛詞を駆使した七五調の句が観客を魅了する。〆句の「こいつぁ春から縁起がいいわえ」とは、実は通りすがりの夜鷹を大川に突き落として金を奪ってみたところなんと百両もあったという、とんでもない幸運を素直に喜ぶ盗賊の浮かれ具合が言い表されているのだが、ここで強盗傷害犯の悪逆さを観客に微塵も感じさせないのが黙阿弥の真骨頂である。

ね、聞き覚えあるでしょ?


・・・ちなみに、「元の木阿弥」とは字が違いますのでお間違いなきよう。(じぃ)