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戦中…戦後…
これは物語ですね…
終戦の明くる1946(昭和21)年6月15日、塚本幸一はビルマから復員したその足で京都に婦人洋装装身具卸「和江商事」を創業した。やがて東京に瀟洒なワコール新宿ビルを建て、高級下着のブランドイメージを築く。
1973年2月、その新宿通りのワコールビルの向かいにモダンなビルが出現した。全面ガラス張りで、むしろワコール新宿ビルより目立つ。通りを歩く人々は、8階建てビルの屋上にある巨大な「AICHI」の看板を見上げた。アイチの本社ビルだ。
が、何をしている会社なのかクビを捻った。ここが日本最大の街金融業の拠点だと人々の口の端にのぼったのは、前号で紹介したトイレ洗剤メーカー「サンポール」の事件以降である。 森下安道が本社を九段から四谷に移転したのは、まだ40歳という若さだった。本社ビル完成後、意気揚々と週刊サンケイのインタビューに答えている。
〈「私どもは手形の売買業者ですが、金を貸してやるんだ、というのではなく、私どものお金という商品を、お客さまに買っていただくのだ、ということなのです。つまり、お客さまあっての企業ですから、私どもの利益が伸びてきましたら、そのつど、決算のたびごとに金利を下げて、お客さまに喜んでいただいている、いわば、共存共栄をモットーにして歩んできた」〉(1973年3月30日号)
インタビューで森下は、やたらこれまでの貸出金利を下げる、と強調した。当時の貸出し上限法定金利である日歩30銭(年利109.5%)を意識し、今も金利はそれよりずっと低く設定しているとも述べている。それは、捜査当局の目を気にしていたからにほかならない。 森下は週刊サンケイのインタビューから2年後の1975年、サンポール事件で強要罪に問われた。翌1976年には懲役1年、執行猶予2年の有罪判決を受けている。 くだんのインタビューで森下は、1980年にアイチの社長から退く、とも語っている。それからやや遅れ、登記上は1986年9月に代表取締役を降りている。
この間、森下は実父の伊作にアイチ社長の肩書を与え、社員たちは森下本人を会長と呼ぶようになった。インタビューの終わりにこの先の抱負を問われ、こう風呂敷を広げた。 〈「四十七(1972)年度の年間取扱高が百八十億円ですが、これを五十五年には千五百億円にもっていきたいと思っています」〉 サンポール事件で、法定金利を超える高利の手形割引業は躓いた。しかし、すぐに復活した。
ある意味、時代に救われたのかもしれない。1970年代の日本は大きな高度経済成長の波に乗り、企業は設備投資に伴う人手不足とともに、資金需要がますます旺盛になった。とりわけ銀行取引のままならない中小企業は、信用金庫や信用組合だけでは資金繰りが間に合わない。借入先に困った。
右肩上がりに成長を続ける日本経済のなか、アイチのような街金融業者に対する中小企業のニーズが絶えることはなかった。洋服屋から貸金業に商売替えをした森下は、取引相手の金銭事情を敏感に察知する嗅覚に長け、そこをとらえた。
森下率いるアイチは、以前にも増して業績を伸ばしていく。 四谷の本社だけでは顧客に対応できず、日本全国に子会社や支店を展開した。大阪や福岡、北海道といった地方都市に支店を出し、東京には中央区八丁堀に子会社「東京アイチ」、千代田区麹町に「中央アイチ」を設立。さらに台東区の東上野や江東区の亀戸にも支店を置き、従業員が瞬く間に増えていった。
1970年代前半からアイチと取引を始めたという品川区の電気通信会社社長、水谷浩滋(仮名)に会えた。森下にこう感謝の言葉を隠さない。 「私どもが四谷のアイチ本社を訪ねたのは、会社を起こしたばかりでした。もともと得意先だったパイプメーカーの社長が個人的に貯め込んだ私財をアイチで運用していました。その関係で、森下会長を紹介していただき、できたばかりの四谷のモダンな本社ビルの最上階にあったアイチの会長室を訪ねたのです。それから50年、森下会長に大変お世話になり、足を向けて眠れません」
水谷は電話設備工事業者として1968年に起業した。企業や商店に電話機が普及し、1970年代に入ると、ファクシミリが登場した。そんな頃だ。水谷はファクシミリを売り込むため、アイチを訪れた。当時、ロール式の感熱紙で読み取るファクシミリの価格が1台130万円もしたと話す。
「出始めのファックスは高級外車を買えるほどの値段でした。その導入を薦めたところ、森下会長はファックス本体の値段より『感熱紙はいくらするのかね、高すぎるなあ』と言いながら、即決してくれました。ファックスはアイチの各支店から手形のコピーを送らせるのに便利だ、と言うのです。
なんでも融資の担保となる手形には、人相ならぬ手形相のような表情があり、それを見て、どのくらい融資できるか判断するのだそうです。それまで支店の社員たちに持ち込まれた手形を本社まで持って来させていたらしい。しかし、ファックスがあれば、その場で手形のコピーを送らせることができるという。それでまず2台、260万円で購入していただきました」 森下のビジネスにおける特徴は、判断の速さだと取引先や幹部社員たちは口をそろえる。
貸金業の効率化を図るためなのだろう。森下はアイチ本社と支店をつなぐ1台130万円のファクシミリを何台も導入した。水谷はこうも付け加える。 「おかげで私どもはずい分助かりました。それ以来、取引をさせていただき、森下会長からは武井会長なども紹介していただき、ご自宅にうかがったこともあります」
繰り返すまでもなく武井とは、武富士会長の武井保雄を指す。武井は森下に指南を仰いで個人の消費者金融を始め、日本一のサラ金業者としてその名を轟かせた。もともと神田で洋裁の職を世話して森下を東京に導いた次兄の房雄は、森下といっしょに貸金業を始めた。その房雄とは、企業相手のビジネスにするか、個人への小口金融にとどめるか、貸金業のあり方を巡って袂を分かったという。
その小口金融で武井が成功したことになる。 もっともアイチの関係者によれば、兄弟の仲違いの原因は、それだけではなかったようだ。あるとき房雄が手形の取引で暴力団とトラブルになったという。森下がその組へ乗り込んで解決したが、一方で房雄は手形を使った企業相手の金貸しが嫌になったのかもしれない。
ある警視庁捜査4課の暴力団担当刑事は、自らの実体験をこう明かした。 「子会社の東京アイチ社長は、千田あやめという森下さんの彼女でした。あるときその女社長が、暴力団組員から脅されてね。森下さんの住んでいた管轄の警視庁大井警察署に被害届を出したので、私が捜査をしたんです。脅していたのは(広域指定暴力団)稲川会のチンピラだった。けど、捜査を始めると、そこからけっこうな親分までたどりついて、事件にできたよ。それ以来、私も森下さんと親しくなって、たまに食事に誘われました」
ファクシミリをアイチに導入した電設業者の水谷がつぶやいた。 「お付き合いさせていただく中、森下会長は私にこうも言いました。『俺のところにモノを売るのはいい。だけど、絶対にカネを借りるんじゃないぞ』と」
「セツ」と呼んで寵愛した最初で最後の戸籍上の妻
バブル景気の最盛期に「地下経済の盟主」と異名をとった森下は、その一方で捜査当局のネタ元にもなり、人脈を広げていった。警察のみならず、司法検察関係者の知己も多い。 森下はやがて貸金業だけでなく、不動産開発や美術品売買にまでビジネスの手を広げ、多くの関連企業を経営するようになる。本体のアイチ同様、身内をグループ企業の社長に就け、自分自身は会長となった。もっともすべての実権を握ってきたのが森下本人なのは、改めて述べるまでもない。
終戦間もなく上京して一代で成りあがってきた傑物だけに、森下の女性遍歴もまた常人のそれではない。森下は妻妾問わず、数多くの女性たちに囲まれてきた。彼女たちはグループ企業の社長として大切にされた。家族や身内に対する愛情はことのほか深い。 洋裁工場を置いていた群馬県で、佐藤フジノと出会い、正妻として九段のアパレル雑貨輸入会社「ピノ」の代表に就けたことは、第3回に書いた。
ピノは森下の好きなイタリアブランドの洋服やバッグなどの小物を輸入する会社だ。フジノはアイチに新入社員が入ると決まって呼び出し、「あんたはどこから来たの?」と尋ねた。そのため社員たちは「フジノ社長」と呼んだ。 フジノは痩せていて決して美人とはいえなかったが、森下はなぜか「セツ」と呼んで寵愛した。
森下にとって戸籍上は最初で最後の妻となる。 のちに田園調布や岡本に豪邸を構える森下は、四谷に本社を移す前まで品川区西大井の一軒家に住んできた。その頃、旧本社の九段に近い市谷柳町にマンションを建設し、フジノはその最上階のペントハウスを住まいにした。 階下の部屋を賃貸すれば、月に数百万円の家賃収入になる。そう考えた上のマンション建設だったが、フジノはやがて階下の部屋を分譲し、ひと財産を築いた。むろん賃貸料やアパレル会社ピノの利益がなくとも、暮らし向きには困らない。そのため会社の売上げは森下が受け取ってきた。
グループ企業の社長である妻や愛人たちは、会社の売上げをいったんアイチに持ちより、森下がそれぞれに分配するというやり方をしてきた。 社員を連れてヘリコプターで墓参していた 「金貸しから転じてゴルフ場を経営し始めたのはいつ頃で、最初に手掛けたところはどこですか?」 かつて本人にそう尋ねたことがある。森下は次のように答えた。
「初めは、新潟のゴルフ場だったね。その頃、私自身はまだゴルフそのものをやってなかったんですが、ゴルフ場にカネを貸した。帝国観光というところが経営していたゴルフ場で、いいコースだったんだけど、金がなくてね。それで先方が私に2億円で買ってくれないか、と言う。おもしろいじゃないかと話に乗ったんですよ。そしたら、スキー場とホテルもくっついてきてね、そこも買ってくれとなったんだね」
帝国観光の経営してきたゴルフ場が、上越国際カントリークラブ(現・十日町カントリークラブ)である。帝国観光は1976年に倒産し、アイチグループの「サン・ライフ」が買収して経営を引き継いだ。奇しくも森下にとって、サンポール事件で当人に有罪判決が下ったその年にあたる。捜査当局の目がうるさい貸金業だけでなく、経営の多角化を図ろうとしていたのであろう。
森下自身が話したように、ホテルやスキー場を買い取った上、ゴルフ場を拡張し、リゾート施設として規模を広げていった。 それらゴルフ場の開発や会員権を使ったどん欲な経営について、詳しくは稿を改める。ゴルフ場買収に乗り出すときの発想は、洋品店の顧客の売掛け金の回収と似ている。たまたまアイチで融資してきた相手が、ゴルフ場経営企業だったわけだ。森下はこの年、初めに手掛けた上越国際CCに続いて、埼玉県の荒川沿いの河川敷コース「川越グリーンクロス」も買収している。ここもゴルフ場を創業、経営してきた「京信産業」が経営破たんし、債権者であるアイチが買い取った格好である。
ゴルフ場を経営するにあたり、森下はフジノの実兄、佐藤信人をアイチに誘った。佐藤は森下より4歳上の1928(昭和3)年生まれで、それまで建設会社に勤め、ゴルフ場を開発してきた。その建設会社が倒産したため、森下が佐藤に声をかけたのだという。そうして義兄の佐藤がアイチのゴルフ場開発担当部長となり、森下を支えていった。 森下は買収した新潟や埼玉のゴルフ場に新しいクラブハウスを建てるべく、佐藤に設計や施工、さらには建設業者との値切り交渉まで任せた。おかげでゴルフ場は軌道に乗り、佐藤はそれまで平の取締役しかなかったアイチの重役のなかで初めて常務という肩書を得る。
森下は新潟のゴルフ場経営を皮切りに、自前のゴルフ場開発を始めた。と同時に、海外のゴルフ場開発まで触手を伸ばした。佐藤はそうしたアイチグループにおける不動産開発事業に欠かせない重役でもあった。 ちなみに正妻のフジノはバブル絶頂の1989年6月から上越国際CCの社長を務めてきた。森下はここでも会長だ。が、二人のあいだには子供ができなかった。そのせいだろうか、フジノはゴルフに夢中になった。気に入った若手プロゴルファーのタニマチとなり、いっしょにゴルフに明け暮れた。そのフジノは1998年10月に上越国際CCの社長を退任したあと、市谷柳町のペントハウスでひっそりと息を引き取った。
「おい、近頃セツ(フジノの愛称)を見かけないんだけど、どうしているのか、様子を見て来てくれ」 森下がそう命じ、社員がマンションのペントハウスを訪ね、部屋のドアを開けるとギョッとした。遺体はなかば腐乱し、部屋中に悪臭が充満している。異臭に気づいたマンションの住人が警察に通報し、刑事が部屋に駆け付けていたのである。警察官立ち会いの下、フジノの死亡が確認された。現場の刑事も驚き、遺体は牛込警察署の霊安室に搬送されて検死がおこなわれた。遺体はすでに死後3週間も経っていた。
森下は桐ヶ谷斎場で葬儀を済ますと、ゴルフ好きだったフジノのために彼女の生まれ故郷である群馬県に大きな墓を建てた。フジノの実父は、県の特産民芸品であるこけし人形の作り手として知られた。森下はこけしと好きなゴルフを掛け合わせ、墓石をこけしの胴体のように細長くし、その上にゴルフボールをデザインした丸い御影石を乗せた。風変わりだが、立派な墓だ。森下自身の眠るアイチメモリアルほど大きくはない。が、生前の森下は社員を連れてヘリコプターでそこに参拝し、ゴルフボールの石碑に手を合わせてきたという。
艶福家の森下は多くの女性と縁をつないできた。そのなかの何人かの女性たちが森下の子を産んでいる。森下の長女を産んだのが、清水京子だ。森下家の妻、親子関係は複雑極まりない。 京子は森下と同じ1932年、埼玉県春日部市に生まれた。身長は森下よりずい分高く、167センチもある。終戦後、神田のナイトクラブでアルバイトをし、たまたまそこに客として通い始めたのが、森下だった。神田で洋品店を始めた頃のことだ。森下は美人でスタイルのいい京子に夢中になり、クラブに通い詰め、ほどなく二人は男女の情を交わした。 森下が正妻のフジノに市谷柳町のマンションを買い与えアパレル輸入雑貨会社の社長に据えたのは、浮気の負い目があったからかもしれない。京子は森下の2番目の妻となる。
フジノと結婚した1年後の1962年10月、森下と京子のあいだに念願の長女が生まれた、さらに1963年には次女を授かった。奇しくも娘二人の幼い頃は、森下にとって洋服屋から貸金業に転じた多忙な時期と重なる。森下は洋服屋の経営で忙しい合間を縫い、長女佐和子と年子の次女夕子(ともに仮名)という二人の愛娘を可愛がった。たまの休みにはいっしょに出掛け、好きなものを買い与えた。 一方、2番目の妻となった京子は産後の肥立ちが悪かった。病気がちで、子育てがままならない。
そんなときに出会ったのが、3番目の妻となる福井豊子である。豊子は森下より6歳下で、たまたま森下が栃木県の料理旅館に泊まった折、そこに勤めていた彼女を見染めたという。豊子はインドネシア大統領の第3夫人であるデヴィ・スカルノによく似た美女だ。森下がほれ込んだのは無理なかったかもしれない。 「いちばん買いたいものは時間ですよ。ときを金で買えるならいくらでも出すんだけどね」 森下は口癖のようにそう話した。やがて娘たちを連れ、世界中を飛び回るようになる。
(『バブルの王様』第6回につづく)
【プロフィール】 森功(もり・いさお)/ノンフィクション作家。1961年福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。新潮社勤務などを経て2003年よりフリーに。2018年、『悪だくみ―「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著に『菅義偉の正体』『墜落「官邸一強支配」はなぜ崩れたのか』など。
※週刊ポスト2021年12月10日号