大日本帝国海軍航空隊…最後の空戦……1945/8/18… | アナリスト杢兵衛のブログ ~ 気になった事をつらつら……

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停戦日を過ぎてなお空戦は続きました…

坂井三郎少尉…

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【戦争秘話】「終戦の日」の3日後、“日本海軍最後の空戦”を戦った零戦搭乗員たちがいた 。



8月18日、日本海軍最後の空戦に参加した、左より岩下邦雄大尉、小町定飛曹長、坂井三郎少尉、大原亮治上飛曹 今年(2021)1月、千葉県大多喜町の水田から、墜落した零戦の残骸が発見された。零戦――制式名・零式艦上戦闘機。太平洋戦争の全期間を通じて戦い続けた、日本海軍の主力戦闘機である。


このことを特集で報じた8月23日のNHK「ニュースウォッチ9」によると、発見された機体は終戦の日、昭和20(1945)年8月15日に墜落したものと推定され、搭乗員も2人にまで絞られているという。天皇自ら国民に戦争の終結を告げた「終戦の日」、関東の空で何が起きていたのか


【前編】「玉音放送」直前まで戦い続け、死んでいった“零戦の飛行機乗り”たち 



 厚木基地の第三〇二海軍航空隊の局地戦闘機雷電 戦闘三〇四飛行隊は敵機3機の撃墜と引き換えに零戦7機を失い、搭乗員5名が戦死した。公式な戦闘記録は現存が確認されていないが、吉田の日記に、戦死した5名の氏名と出身期が記されている。


それによると、この日還らなかった搭乗員は、杉山光平上飛曹(乙種予科練15期)、田村薫上飛曹(同16期)、増岡寅雄一飛曹(甲種予科練12期)、大上惠助一飛曹(丙種予科練17期)、小林清太郎一飛曹(乙種〈特〉予科練1期)で、全員が予科練出身、18歳から20歳前後の若い下士官搭乗員だった。 


NHKの報道によると、今年1月に大多喜町で発見された機体は、このうち杉山上飛曹(20歳)か増岡一飛曹(18歳)の二人の乗機である可能性が高いという。 これが20年前なら、指揮官・日高少佐をはじめ、阿部中尉、本間中尉、田中宏中尉、小平好直少尉、吉田飛曹長などこの日の空戦に参加した搭乗員が何人も存命だったからより確度の高い調査が効率的にできたのだろうが、いまとなっては、機体とともに発見された人骨らしき骨片のDNA鑑定以外に特定の手段はないと思われる。 


戦闘三〇四飛行隊の空戦から約1時間後、こんどは敵機の第二波73機と、厚木基地を発進した第三〇二海軍航空隊(三〇二空)の零戦8機、雷電4機が神奈川県藤沢上空で激突している。


三〇二空は米海軍のグラマンF6F戦闘機4機を撃墜したが、零戦の田口光男大尉、雷電の蔵元善兼中尉、武田一喜上飛曹の3機が還らなかった。 つまり、8月15日午前の空戦で、戦闘三〇四飛行隊と三〇二空の合わせて8名が、数時間後の玉音放送を聞くことなく戦死したことになる。米英の搭乗員も、処刑された者をふくめ10名が死亡した。


 この日、午前10時半にはさらに、茨城県の百里原基地から房総沖の敵機動部隊に向け、特攻隊・第四御楯隊の彗星(艦上爆撃機)8機が出撃し、18歳から25歳までの搭乗員16名が戦死している。


 また15日の夕刻、九州の第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は、大分基地より艦上爆撃機・彗星11機を率い、最後の特攻隊として飛び立った。宇垣中将はこれまで大勢の部下を死なせてきた責任をとるつもりであっただろうが、この出撃は、玉音放送後に若者を死地に追いやった「私兵特攻」として、いまもなお強い批判を浴びている。 


自衛のための戦闘は妨げない 昭和20年8月16日に軍令部より出された停戦命令。


この時点ではまだ、自衛のための戦闘は認められている 日本本土上空の戦いはなおも続く。じつは、天皇の玉音放送は国民に終戦を告げるものではあっても、陸海軍に対する「停戦命令」とは別である。大本営が陸海軍に、 〈停戦交渉成立ニ至ル間 敵ノ來攻ニ當リテハ止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戰闘行動ハ之ヲ妨ゲズ〉(停戦交渉が成立するまでの間、自衛のための戦闘は妨げない) との条件付きで停戦の命令を出したのは、玉音放送の翌8月16日午後のこと。


8月19日、海軍軍令部は、支那方面艦隊をのぞく全部隊にいっさいの戦闘行動を停止することを命じるが、その停戦期限は8月22日午前零時だった。



 〈自衛ノ為ノ戰闘行動ハ之ヲ妨ゲズ〉とされていた8月17日、日本占領に備え、関東上空を偵察飛行した米陸軍の四発爆撃機・コンソリデーテッドB-32ドミネーター4機を、三〇二空の零戦12機が邀撃。B-32は、もとはB-29との競合機として開発された大型爆撃機で、終戦直前に実戦配備が始まったばかりの新型機だった。


 翌8月18日には、同じく関東上空に飛来した2機のB-32 を、横須賀海軍航空隊(横空)の零戦、紫電改、雷電、計10数機が邀撃した。横須賀基地では、終戦が告げられてもなお、機銃弾を全弾装備した戦闘機が飛行場に並べられ、搭乗員たちはやる気まんまんで指揮所に待機していた。 


「敵大型機、館山上空を北上中」 との情報に、搭乗員たちは色めきだった。 「それ、やっつけろ!」 飛行隊長・指宿正信少佐が、「よし、上がれ!」と指令したが、そのときにはすでに、国分道明大尉ら数名が、飛行機に向け走っているところであった。塚本祐造少佐、岩下邦雄大尉らもこれに続く。 



 8月18日、日本海軍最後の空戦に参加した、左より岩下邦雄大尉、小町定飛曹長、坂井三郎少尉、大原亮治上飛曹 この日、B-32にまっさきに攻撃をかけたのは、初陣の多胡光雄大尉(1924-2010)である。当時21歳、ベテラン揃いの横空でなかなか出番に恵まれない多胡は、誰も乗らなくなっていた旧式の零戦三二型を整備し、テスト飛行を兼ねてひと足先に離陸したところでB-32と遭遇したのだ。多胡の回想――。


 「高度6000メートルに上昇したとき、『カモ2機、館山上空を北上中』と、地上指揮所から無線電話の声が聞こえました。『カモ』とは、敵機を指す符号です。続いて、『カモを発見次第、撃墜せよ』との命令がはっきり聴こえた。はるか東京湾の南方を見ると、2機の敵大型機が北上してくる。碧い東京湾と晴れた空、緑の房総半島、ちぎれ飛ぶ白い夏雲……そのなかを、日差しを反射して銀色に輝く敵大型機が飛ぶさまは、思わず見とれるほど美しかったですね。 敵機の高度は約3000メートル。私は、千葉上空で敵の一番機に狙いを定め、真上から垂直降下で攻撃しました。距離500メートルから撃ち続けると、機銃弾が命中したらしく、敵機の右内側のエンジンから、もくもくと黒煙が吹き出すのが見えた。そのまま降下して敵機の腹の下に出て、こんどは前下方からの攻撃でとどめを刺そうとしたんですが、弾丸が出ない。すでに機銃弾を撃ち尽くしてたんです。


敵機はここで針路を変え、南へと逃げ始めました」 敵機発見の情報を受け、発進した分隊長・岩下邦雄大尉(1921-2013)は、 「迷いは全然ない。だってまだ停戦命令を受けてませんから。私は零戦五二型に乗って発進、三浦半島上空で南下してくる敵機を待ち受け、後上方から肉薄して、至近距離で機銃の発射把柄を握った。ところが機銃が故障していて弾丸が出ない。あれは悔しかった。その様子はちょうど横須賀基地から見えていたらしく、あとで飛行隊長の指宿少佐に、『分隊長、いいところにつけていたのに、惜しかったなあ』と言われましたよ」 と言う。 


小町定飛曹長は紫電改に、坂井三郎少尉、大原亮治上飛曹は零戦五二型に搭乗し、それぞれ敵機に命中弾を与えたのを確認している。 「みんな気が立っていますから、われがちに飛び上がった。私は紫電改に乗って、真っ先に離陸しました。誰からも命令された覚えはないし、いちいちお伺いをたてている暇なんかありません。千葉の方角から南下してゆく敵機に、東京湾の出口付近で追いついて、ラバウル、トラックの戦いで鍛えた直上方からの攻撃で一撃。敵機の左主翼のつけ根あたりに20ミリ機銃弾が炸裂するのが見え、黒煙を噴き出しました。余勢をかって急上昇して、伊豆半島の上でもう一撃。敵機はとにかく、降下しながら全速で逃げるものだから、紫電改でも二撃が精いっぱいでした。


零戦だったら、とてもあそこまで追えなかったと思います」(小町定飛曹長 1920-2012) 「私は零戦五二型に飛び乗って単機で離陸しました、相模湾上空で敵機を発見し、そいつを追いかけて、とりあえず浅い後上方から一撃をかけた。機を引き起こすとき、あれ、これはいままでのB-29とは違うぞ、と思いました。巨大な垂直尾翼が印象的でしたね。敵機の動きを注視しながら高度をとり、こんどは伊豆大島上空で直上方から攻撃しました。敵機は煙を噴きながら逃げるばかり……。これは硫黄島の基地まで飛べないだろうと思い、三撃めは『もういいや』と、遠くから撃って引き返しました」(大原亮治上飛曹 1921-2018) 


「これが最後の空戦になると思いましたから、もっとも愛着の深い零戦に迷わず乗った。私は右後上方から攻撃をかけましたが、味方機と交錯してミスってしまった。誰かが有効弾を与えたらしく、敵機は左の主翼から黒煙を曳いて逃げようとする。私は大島を過ぎたあたりでようやく追いつき、最後の20ミリ機銃弾を発射した。三宅島の手前まで追いかけましたが、弾丸を撃ち尽くしたので、最後まで粘っていた小町機と合流して還りました」

(坂井三郎少尉 1916-2000)


 搭乗員たちは、横須賀基地に帰投してはじめて、先ほどの敵機が初見参のB-32であったことを知った。B-32はいずれも墜落は免れたものの、機銃の射手・アンソニー・マルチオーネ軍曹が機上で戦死した。余談だが、マルチオーネ軍曹の娘は日本人と結婚し、戦後半世紀あまりを経て、女婿が小町と東京で対面している。


 ――翌朝、いつものように飛行場に出た搭乗員たちが見たものは、飛べないようプロペラとスピンナーが取り外された零戦や紫電改の姿だった。 


8月15日。この日をひとつの区切りとして、「あの戦争」に思いを馳せ、平和の尊さを考えるのは意味のあることだ。だが、「終戦の日」当日やその後にも、日本本土上空で戦いがあり、敵味方の若い命が失われたこと、そのために、平和な時代の到来を目の前にして悲嘆の淵に突き落とされた遺族がいたことはぜひ記憶にとどめておきたいと思う。


大多喜町で発見された零戦の残骸は、そんな歴史の一断面を世紀を超えて語りかけてくる。 (大多喜町の零戦の残骸は、現在睦沢町立歴史民俗資料館の企画展「太平洋戦争 日本史上最大の歴史体験」で展示中。9月26日まで) 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)