今年の3月、東京から愛知へUターン転職をしました。現在は豊橋市に住んでいます。家の近くの豊橋公園に何度か散歩に行きました。

豊橋は戦前、軍都として栄えた歴史を持ち、豊橋公園の入り口には営門の一部や歩哨所が残っていて当時の面影を残しています。

公園の奥、背後に豊川が流れる小高い丘の上に吉田城の鉄櫓と石垣がたたずんでいます。豊橋は江戸時代、吉田と呼ばれておりました。

吉田城は戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改修が行われました。1590年に池田輝政が15万2千石で入城した後、吉田城及び城下町の整備が行われ、江戸時代は幕藩体制の下で交通の要所として譜代大名が歴代藩主を務めてきました。吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門と言われていました。

このような徳川幕府と関係の深い土地柄であったためでしょうか、愛知県の中でも豊橋を始めとする東三河地方はどことなく東京志向が尾張地方や西三河地方よりも割と強いように感じます。私自身、職場は名古屋で取引先は豊田、住居は豊橋と愛知県内を横断した生活をしておりますので県内の地域差というものを約2か月間で何となく感じています。

政治、経済、文化と様々な切り口がありますが、名古屋を中心とした尾張地方と東三河地方では、住民の気質という面でも明らかに違うと感じます。名古屋の人は、派手なもの、インパクトのあるものを好む傾向にあり、東三河の人は地味ですが堅実で正確さを大切にする気質を持っているように感じます。名古屋には、駅ビルとしては日本一の規模のJRセントラルタワーズ、そしてJRゲートタワーという超高層ビル群がそびえ立ち、名鉄名古屋駅には全長400メートルの日本最長幅の超高層ビルの建設が予定されています。「日本一」を好む名古屋気質を象徴しています。名古屋は江戸時代に徳川御三家筆頭の尾張徳川家が治めており、第7代尾張藩主の徳川宗春は派手好きで開放政策・規制緩和策で名古屋の町を活気づかせました。時の将軍、徳川吉宗の緊縮財政・法規制の強化と真っ向から対立する政策でした。江戸時代の為政者の性格が、今日の名古屋人のアイデンティティに影響しているのではないでしょうか。

一方の豊橋を中心とする東三河は、私の故郷の田原を始め、中小の藩が乱立して譜代大名が代々治めていた土地柄です。江戸幕府を支える譜代の藩として、江戸志向の土地であったことは想像に難くありません。明治の世になりますと吉田城に陸軍の歩兵第18連隊が駐屯し、国内有数の軍都として栄えます。豊川には東洋一の規模の海軍工廠が建設されました。富国強兵の政府の方針の下で国策の影響を大きく受けて東三河は歩んできたのです。

歴史を振り返ってみますと同じ愛知県でも地域の気質が異なってくるのは当然でしょうし、独自性を大切に1つの愛知県として日本を盛り上げていきたいものです。すみません。最後は無理やり纏めました。西三河との比較は別途考察します。