ハイチの地震被害、かなりすごいことになっているようです。 すでに5万人の遺体が収容され、死者は最大で20万人に達する可能性があるとのこと。叫び

つい最近の中国・四川地震もかなりの犠牲者を出しましたが、それを上回る可能性もあります。 日本も地震国、人事ではありません。

日本にいる限り、いつ、どこで起こっても不思議ではないのですね。


ところで、今日 1/17は阪神淡路大地震が起こった日。 15年も経った今、若干 風化しているようですが、あの地震を忘れてはいけません。


最近では大都市で起こった唯一の大地震です。 都市機能は完全にマヒし、復興まではかなりの年数がかかりました。 仕事の関係でよく神戸方面へ行きますが、5~6年は爪あとが残っていたものです。しょぼん

以前に別ブログでも書きましたが、当時 客先や下請けさんが尼崎、武庫川、神戸、宝塚などに点在していたので、地震発生数日後からその方面へ行きました。

当然、渋滞や通行禁止で車車では行けず、バイク自転車で時たま歩道を走ったり、地割れのある堤防を走ったりして行ったものです。

神戸市内は公共機関が再開した1か月後(それでも途中からは代換えバスバスなどで1日がけでした)に行きましたが、報道などで見た衝撃叫びの現場にただ驚くガーンばかりでした。

その後、1か月ごとに神戸を訪れ、その度に序々に復興されていく神戸を見ていたものです。 現在は数ヶ月おきくらいにしか行きませんが・・・


あれから15年、私の所属するボラ団体で、鎮魂をこめて「震災メモリアルウォーキング」男の子がありましたので参加してきました。


スタートは当時 火災メラメラの一番激しかった「新長田」からです。


  新長田駅電車横の「鉄人28号」

 アウトドアのすすめ-新長田 鉄人28号


当時 報道などで見られたすごい炎がこの地区の火災メラメラです。 数日間燃え続け、全半焼4772棟、約30haが焼失、死者ドクロは921名に達しました。


兵庫県全体の焼失面積の半数以上が、この長田地区の火災です。

また、長田地区の人口はいまだに震災前の8割にしか達しておらず、かなりの人が"戻ってきていない"ということです。


 整備され、広い公園になった「水笠公園」
 アウトドアのすすめ-新長田 水笠公園

 かつてはここに木造の住宅が密集していた

 公園入り口にある震災復興記念碑
 アウトドアのすすめ-新長田 復興の碑

 当時の模様を伝える特設掲示写真(西市民病院病院前)  右端が長田地区
 アウトドアのすすめ-西市民病院

尚、当時 西市民病院病院は5階が崩れ、入院中の患者が閉じ込められる事態となった。 患者1名が死亡したが、他は全員無事救助された。

また、ここで病院関係者の話を聞いた耳が、地震発生1時間前に出産があり、出産児の処遇に苦労したそうです。

そして、ここに被災者の多くが救急車や自力で押し寄せ、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰め、患者を診るなどの緊急処置を取らざるを得なかったという。

まさに野戦病院なみの修羅場と化したそうである。 運び込まれる患者数に対し、医師や看護士などの圧倒的不足で治療を待っている間に息絶えた人もいたという。ショック!

ゴール地点はメリケン波止場船、震災メモリアルパーク。 当時の被害状況をそのまま残してある。


 アウトドアのすすめ-メリケン波止場 震災メモリアルパーク1

 アウトドアのすすめ-震災メモリアルパーク2

ここを含め、港湾設備は地盤の液状化でほとんどが壊滅的打撃を受けた。しょぼん



今回、新長田駅電車からメリケン波止場船まで8km、けっこう歩きました。 特に長田地区は震災数ヶ月後に訪れたきりでしたので、その復興された変わりようには目目を見張りました。

しかし、文中にもありますように、人口は震災前の8割にしか達していません。 このへんは小企業のサンダル製造業者の多かったところ。

ほとんどは廃業し、この土地を離れたままになっていると思われます。


震災後15年も経った現在、ただ 見た限りでは町並みは復興されていますが、人の心の復興や人生の復興にはまだ至っていない人も多そうです。しょぼん


阪神淡路大震災で被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超え、3ヶ月間で延べ117万人とも言われ、ボランティア活動が大々的に行われた年でもあります。

このために日本における「ボランティア元年」とも言われています。

尚、現在 1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定められています。


新潟中越沖地震のボラ には2度ほど行ってますが、当時は私も会社のことや関係者の応対などでボランティアはしていませんが、後から聞いた話によると、元社員がボランティア参加していて、バイク自転車でアマチュア無線片手に走り回ったそうです。

しかし、現場をこの目目で見た衝撃叫びは今でも忘れられません。


当時、「こんなことをしてる場合か!」プンプンと言われながらも、心を鬼にして被災者たちを取材たレポートがある。

こちら→「阪神大震災15年


記事中にある被災者の言葉「後ろばかり振り返っても仕方がないと・・・」が印象的でした。



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