「隣駅で人身事故がありました関係で、発車を見合わせております。
 お急ぎのところご迷惑をおかけしますが、今しばらくお待ちください。」

アナウンスが流れて、午前9:00、電車は止まってしまった。
15:00からのフランス語の試験のために、早く行って勉強をしようと思っていた矢先だった。

今朝は靴の紐が切れた。
なんだか縁起が悪いな、と思いつつ、
30分待っても動かない電車から、いらだたしげに人が去っていくのを見守りながら、
別の考えが頭に浮かんだ。

どうして、人の死(あるいはそれをも含みうる大惨事)をここまで無機質に語れるのだろう。

自殺であれば、そこにはある一人の人が、自殺しないといけないような物語があるはず。
事故であるならば、それは「誰のご迷惑」かを明確に言いえなければならないほど、
明日はわが身の鬼気迫る問題。
どちらにしても、それは想像すればするほど、ドラマチックなできごとのはずだった。

「現在、自殺未遂を図った女性を救助しております。
 お急ぎのところ大変ご迷惑とは思いますが、命に関わる重大事ですので、
 少しばかりのお時間をいただきつつ、無事祈願をお願いします。」

と、アナウンスする車掌がいたとしたら、誰が自分の会社の会議や、
あるいはテスト勉強ができなくなることを気にかけるだろうか。
そこは一人の人間の命を見守る、温かい人々の塊になって、
きっと普段とは違う車内風景に変わるはずなのだ。
人間はきっと、自分が当事者だと思えば、もっとやさしくなる。

動かない電車から、たまたまの停車駅を出て、
駅前の喫茶店に入った。
いかにも「地元」といった喫茶店には、マスターと近所のおじさんが一人。
ビートルズの音楽と、コーヒーの香りがした。
電車は止まった。
でも私はそのおかげでとても落ち着いて勉強ができた。

私は知らない。
今日、あの人は生きながらえることができたのだろうか。
私の30分、電車に乗っていた人すべてがあげた30分。
代わりに生きてほしいものだ。


なぜ英語ができないかって聞かれて、よく答えるのは、

「感情移入しすぎるから。」

絵本にでも出てきそうなお粗末な文章でも、外国語で書いてあると涙が止まらなくなる。
センターの英語問題、最後のエッセイ。
私は毎回涙なくしては読めず、無論本番のセンターの教室で一人泣いていた。

何の障害も、何の制約もなく、
素直に筆者の訴えたいことをとらえようとすると、
心が無防備になって、信じられないくらいの衝撃で私の中に入ってくる。

だから英語が嫌いなんだ。

なんて言ってそれが言い分けないのは知っているけれど、
周りの人はどうなんだろう・・・といつも不思議に思う。



大嫌いな、フランス語の勉強を始めた。
第五共和国憲法を今、暗記し終えて思う、
大学教育における、第二外国語なんてどれだけ意味があるんだろう・・・
哲学も政治も、経済も、生物も皆好きだけれど、
この七変化のフランス語動詞の暗記だけはどうしてもできない。
授業も窮屈で、1度しか出席できず。
3日後にテストがあって、それで7割以上取れないと留年だそうだ。
いざとなればなんとかなるだろう。
それでもホリエモンの気持ちがわからなくもない。

まんが日本昔話を久しぶりにテレビで見ていたら、涙が止まらなくなった。

「鬼はうち
 福はそと」

家族に先立たれたおじいさんが、節分の日に、あべこべに言った言葉に従い、
寂しい囲炉裏端に何匹もの鬼が集まってどんちゃん騒ぎをした。

「来年もくるよ・・・」

という鬼たちの、その一言のために、おじいさんはもう少し長生きしてみようと思う。


そういえば昔話の主人公は大概おじいさん・おばあさんだ。
昔話をするのが、おじいさん・おばあさんが多いからなんだろうけれど、
今さらながらに、その視点がとても新鮮だった。

物語の面白いところは自分が自分でない架空の存在になれるところにこそある。
『赤毛のアン』を読めば、
行ったこともない異国の地で、私は恋をし、子どもを産み、そして余生を送る。
『ワンピース』を読めば、
私は海賊船の船長になり、自分の手がどこまでも伸びるヒーローになれるし、
『水滸伝』を読めば、
108人の英雄たちの中から、自分のお気に入りを選んでその役になりきれる
(私は史進だったけれど・・・)。
スティーブ・ジョブズの『icon』なんて読めば、
実在の経営者にだってなれる。


でもなんとなく、私はこの、昔話の視点、というのを忘れていた気がするんだ。
このまんが日本昔話でもなければ、出会えない人物がいた気がする。
そこには山間と小さな家と、年老いた自分と、温かそうな食べ物がある。
シンプルで、何かあきらめたところがあって。
こづるくて、何も「平和」や「善悪」で生きているのではない。
もっともっともっともっと、肉感的で、リアリティのある、
「ひと」「しぜん」「かみ」が息づいている。

今日は体調を崩して、熱と咳が止まらない。
そういうときに「あまざけ」を飲みたくなる気分。
「風邪薬」ではなく。

二度と、あのメンタリティを取り戻せないのかと思うと、
失ってしまったものの大きさに、ほろほろと涙がこぼれた。



今日は素敵な人形を買った。

弁財天の銀杏人形

弁財天。
七福神の中で唯一の女性の彼女。
もとインドでは、音楽・弁才・財福などを司る女神であるらしい。
琵琶を片手に、くるくると踊り出しそうな彼女は銀杏の実からできている。

まれに、本当にまれに。エキナカで1つ200円の「銀杏人形」を売っている店を見かける。
何十もの色鮮やかなマグネットつき銀杏人形が並んでいる。
十二支をかたどったものから、ピカチュー、ミッキーといったキャラクターまで。
親指くらいの大きさにいろいろな夢が詰まっているようで、私は毎回通りすぎる度に見入ってしまう。

決めていることがあって、いつも一つしか買わない。
何でもNo.1になることはとても大変なことだと思う。
そのお店でNo.1だと思った造形品を、やわらかい和紙に包んでもらって握り締めて、帰る。
約30分ほど、選抜にはかかる。


今日、私の手は何も弁財天を握り締めるだけではすまなかった。
とても面白い「無限」の本に出会ったから。
『無限論の教室』 (野矢茂樹さん作)。

小さいときから私はずっと、「無限」というのを

最も大きな数

のことだと思っていた。
そしてそれはとてつもないパワーを持っているものだと思っていた。



この記号が初めてノートに登場したのは、小学3年生のころ、
芥川龍之介を読み出して、15時からの再放送の火曜サスペンス劇場を欠かさず見ていたころ。
当時、私はそれが死と同じくらい怖かった。
考えても答えが出ないこと、誰に聞いても答えが出そうもないこと、
に悩めると、胸が締め付けられるように痛くなった。
それは人間の無能さを表すことのような気がした。

人間が、あるいは私が無能だから、絶対に「無限」は解き明かせない

のだと。


中学生になって、

「無限」はとても小さい

ということを学んだ。
ナノミクロンや中性子・・・科学は「無限」の小ささと戦っていたのだ。
でもここでも人間の無能さを象徴するでしかなかった。
人間は小さな「無限」にも対抗できない。
150~200と言った、人間のサイズの問題である気がした。
夢の中で、小人になった私は、最後の切れ目を原子に入れようとして、それでもなかなかナイフは刺さらないのだ。

そんな価値観の形成。
「無限」への抵抗感。
しかし同時に一方で、私は一種のいわゆる「実無限」的な価値観の中で矛盾をしていたのだと思う。
「実無限論」とは、

無数の点の集合が線になる
と言った、ゴミのような多数要素の集合がつながりあって、一つのものを作り出す

という考え方。小中で触れた、大概の大人の考え方。

しかし、私は矛盾していた。
もっともっと恐ろしい「無限」に出会って恐怖していたから。
それは、「無期懲役」という「無限」だった。


日本の刑罰で、死刑の次に重いものが「無期懲役」だった。
小学生のときの火曜サスペンス劇場で「無期懲役」が下れば、
私はそれを、

「無期=とてつもなく長い」期間の服役

だと考えて、勧善懲悪の立場から、伝家の宝刀のように敬っていたのだ。
しかし、現実社会では、「無期懲役」はたったの15年や場合によっては10年、
そんな「計り知れる」長さの刑期しか指さないことを知る。

「無期」とは私の考えていた「無限=人間では計り知れない大・小の量」ではなかった。
その矛盾を、だから、私は

「無期」 ≠ 「無限」

であるとして、解決するしかなかった。
違う意味で「無期」を憎むことになる。
「無期」は人間の怠慢であり、世間体を気にした、逃げ道だ、と。
「無限」に違う解釈があるなんて、当時私には微塵も想像できなかったから。


高校生になり、「無限」はもっと数学的な趣きになる。
ただ慣用的な使用ではなく、「∞」はテキストの中で、収束したり拡散したりした。
その不可能性は人間の無能さだけが原因ではない。

「本質的に」「無限」はカウントしきれない

のだと知る。
しかたないのだというあきらめ。
それを見極めることが「大人」になることだと、背伸びをして思った。



大学生になって、一人の数学嫌いの先輩に会った。

「どうして、数学が嫌いなんですか?」

「うん。どうしても『無限』が理解できなかったからだよ。」

「『無限』の何が理解できないんですか?」

「『無限×2≠無限+無限』って習ったんだけど、意味わかる?
 わかんないんだよねー。
 あとさ、『直線と平面、3次元空間でも無限の数が一緒』なんて、もう理解を超えたよ。」

へー、不思議ですね。
とその時答えた。私は答えを持っていなかった。
憧れの、とても優秀な先輩が理解できないと言うからには、
何かとんでもない秘密が「無限」にはあるのだろう、ということだけがわかった。
そして、多分私には理解できないんだろうな、というあきらめもあった。


ただそれでもいつでも、心の中に引っかかっているものである。
「無限×2≠無限+無限・・・」
そんなフックが、『無限論の教室』に引っかかった。


とても長い前置きになったけれど、私がこの本にひどく感銘を受けたのは、
一重に、知らなかったことを知ったから、というわけではないんだ。
知っていたのに、知らないふりをした自分を恥ずかしいと思ったから、
だから私は、この本に赤線を引く。

無限とは、際限のない可能性のこと

点が集まって線になるのではなく、
線から点を無限に切り取ることができるのだ

論理の逆転だった。
無限とはひどく恣意的なものであることを知った。
やるか、やらないか、そこが限界であり、
文字通りその可能性が際限なくあること、それが無限。
無期懲役は、無限だった。
大きいものも小さいものをすべて無限だった。
その怠慢も曖昧性もひっくるめて、無限だったのだ。


「無限×2≠無限+無限」の大小関係はわからない。
「可能性」である無限にそもそも大小関係が成り立つのかもわからない。
ただ、わからなくていいんだ、ということがわかった。
きっと先輩の「無限」のお話は、使い慣れたメタファーだったのだと思う。
思考停止の言い訳、というメタファー。

そんな歴史を経て、
私は今、無限が好きだ。




六本木ヒルズに新しくできたアイスクリーム屋、コールドストーンアイスクリーム。
11月3日のグランドオープンには、何百人という人が駆けつけ、2~3時間待ちになった。

何が他のアイスクリームと違うのかと言えば、

演出
具だくさん

の2点だと思う。
「クルー」と呼ばれる店員が、たくさんの具をその人のチョイスに合わせて、アイスクリームに仕立て上げる。
カップルで入れる、大人っぽい店内の装飾。
ディズニーランドのようなアミューズメント性に富んでいる。
そして、2時間待たせても、満足させる、商品のクオリティー。
バリエーションばかりか、食感の違いが、また来たい、と思わせる、三ツ星のできらしい。

こういうものを自分も作りたいと思った。

矢沢あいの『NANA』が大ブームを起こした。
作品の中に散りばめられた「売れる仕掛け」。

着まわし術を垣間見れるファッション。
ライバル関係。
作中地名がファンの聖地になるような、リアリティー。
             (『日経エンターテイメント!』)

若い女性に受ける、というのは何となくわかるけれど、
「ハチ」と呼ばれる女性の、弱さやもろさも、
「ナナ」の一途な強さも、
私には他の物語と同じように、「フィクション」であった。
そして他のマンガ以上に、その物語の「泥沼的」(小説っぽさ)に
マンガを求めるときにの、さわやかでささやかな欲求を害される気さえ、した。

『下弦の月』という彼女のマンガを昔読んだことがあった。
今ではストーリーはほとんど覚えていない。
一点、気になったのは「下弦の月」と言って描かれた月が、上弦の月だったことだ。
いや、正確には、
私は『下弦の月』の「下弦の月」が上弦の月だったと記憶している。
今こうやって文章を書きながら、これは単に、
「そうだったら、最悪だな。」と思って作品を手に取った、
あの頃の私の心理が、そのまま真理になってしまっているのかもしれない、とも思える。
あるいは、夢に見たことを事実と勘違いしているのかもしれない。
それはどうでもいいことだ。
私の記憶の中では、だから『下弦の月』の「下弦の月」が上弦の月なのだ。
そしてそのときの不信感を今でも忘れることができない。

上弦の月と下弦の月は違う。
そしてそれが象徴するメンタリティーもやはり違う。
上弦の月は、弦が上側、つまりお椀を少し傾けたような、半月。
下弦の月は、弦が下側、お椀をひっくり返そうとしているような、半月。
その姿勢がそのまま、向上心であり、包容を連想させる。
それはやはり違う。

昔から、私は何故か月が気になった。
通学路、最寄り駅の改札をくぐると広場があって、辺りを見わたせるから、そこで私は月を探す。

今日の月は更待ち月だ。

と月が発見できるとき、それはとても風流だ。
ある登山家が、

今日の月はどのような月か、ご存知ですか

と講演会で問うたそうである。
それを知らないくらい、都会人は自然から乖離されている、
ということを伝えたかったらしい、その言葉。
私は彼が自然をどのように捉えているのか、
少なくとも私とは全くかけ離れているであろう、その認識に、ひどく憧れを覚えた。
授業で月の勉強をしている最中だったので、勿論月の形を知っている。
でも学問と生活が一体となっている、「大人」の姿に、ひどく憧れを覚えたのだ。

月の土地・火星の土地を購入した。
友人がどうしても欲しいというので、プレゼント用に。
ネット上で売買されているそれは、お金を払うと、英語で自分の名前が印字されている、
きれいな額に入った証明証が届く。
星新一とか阿部公房のSFみたいだな、と感じる。
私には友人のメンタリティがわからなかったけれど。

自分のモノだ。

と月を眺めるのだろうか。
それがロマンなのだろうか。
有限な権利をそこに主張することで、あの登山家のような
月へのまなざし(ある意味では無限の所有権)を一気に失ってしまう気がして、
私はそのリアリティのない印刷物を、夢だと思い込もうとしている。
これは一種のギャグ。

アメリカだろうと、ガラパゴス島だろうと、今日の月は更待ち月。
私の好きな人も、どこかで『同じ月を見ている』
月に関して話すことは、本当それだけで、十分なんだ。
今日は、韓国人クリスチャンの先輩と、2時間かけてランチをした。
お話した内容は主に、神について。
彼女の言葉が心にしみた。

日本人はかわいそうだと言う。
自分は神がいることを知ってしまった。
知ってしまったのに、知らないふりなんてできない。
そして知ってしまったのなら、サタンと戦わないわけにはいかない。
どんなに辛いときでも神がそばにいるから辛くはない。
私はそれを日本人に伝えないといけない。

なんて力強い話なんだろうと思って、聞き入ってしまった。
そう、私はこれでもクリスチャンになりたいんだ。

どんなにか、楽だろうと思う。
辛いときにそばにいてくれて、助けてくれる。
いつもそういう人がいる人間はどんなに強いんだろう。
そして悪いことがあるとサタンのささやきのせいにできる。
もし、心がとても弱っていたとしたら、私はどれくらい神にすがれるだろう、
と時にはネガティブに神を信じたいと思う。
また、教会というコミュニティに集う、ある種学校や会社とは違った人たちに会う、
という目的のために(その中には数多のお金持ちもいるだろう)、
打算的に神を信じられたら、と思う。
そしてでも、純粋に、何かを無心に信じたいと思う。
それは最もナチュラルに。
しかし、いつもその最もナチュラルな欲求は決して、イエスには向かわないのだ。

ニーチェが好きだ。
彼が理想とする、絶対的で主体的なニヒリズム。
「何度でもこの生を生きられる!」という、永劫回帰に耐えうるだけの、
純粋にして強力な自己(現実)肯定。
それを実行する超人(イエスだけが超人だとニーチェは言う。)

私は日本人とは、ある種、天然の超人なのではないか、
と常日頃考えてしまう。
その自然観において、この生を受け入れる。
善も悪もない、曖昧な「自然」という主人に身を任せ、
そして一生懸命生きる。
(キリスト教を知った上で、それを否定すると言う過程を経ない点で、
 ニーチェの言う超人とはいえないけれど。)

どうしたら、神を、キリストを、イエスを信じることができるんだろう。
先輩は急がなくていい、いつかわかる、と言った。

今日、マンガ家の山本英夫 さんとお会いした。
山本さんは人気マンガ『ホムンクルス』を描いていらっしゃる有名なマンガ家であるらしい。
いわゆる「マンガ家」のイメージとは程遠い、極めてファッショナブルな方だった。
胸にはごついシルバーのネックレス、黒い帽子に黒いトップス。
街を歩いていたら、きっとどこかのバーテンダーか何かと間違えそうだ。
会社で、私の席の向かいに座っているオカマの先輩に会いに来たらしい。
彼のマンガを読んだことがなかったので、話しかけることができなかった。
あまりに勿体ない体験。
やっぱりこれからは色々なモノを読まないといけない、
と思って、早速Amazon.comで彼のマンガを大量購入した。
次に会うときは、ぜひお話したい。

私の会社の席の隣には、本当にきれいなオカマの先輩が5名、仕事をしている。
今日、彼らがこんな話をしていた。

「私、オカマの友達なんて、今まで一人もいなかったー。」
「私もー。」
「えー!あんた達、どんな寂しい思いしてきたのよ。どうやって生きてきたのよ。」
(爆笑)
「オカマなんて一人で十分よ。」
(爆笑)
「ひっそりと隠れて生きてたよー。」
「まぁ何とかなるもんよ。」

私は彼らに会うまで、オカマというものを抽象概念でしか知らなかったので、
彼らの生身の肌と声と、それから強さに触れる今、色々なことが発見になる。

「オカマ」は大概、大衆マンガに一人、登場する。
彼らは総じて、面倒見がよく、そして何にでも相談に乗ってくれる。
それなりに恋をして、それなりに苦労をしながらも、いつも周囲に笑顔をくれる。
具体的な名前が思いつかないのが寂しいけれど、
そういう風な像が私の中にはあった。

実物の彼らはそんな像に対し、違うわよ、なんて表立って言わないけれど、
その生き方は、間接的にそう気づかせてくれる。
それは全く悪い意味ではなく、偶像化された人間をなんとなくわかった気になる
私たちにはちょうどいいのだと思う。
そうして私は思う。
私自身も、こういう生き方がしたいんだろうなー、と。
オカマほど極端に社会的な意図を発信しながら生きているわけではないけれど、
履歴書を持っていけば、「東大生」というレッテルを貼られる私にしたって、
それなりに、その「東大生」に苦心をしてきた。
憤るよりむしろ、幻滅されるのが怖い、と思う。
そして気のない気取った自分をある程度拵えている。

今日、自分は小さいと心から思った。
「博士」のメガネをはずすべきなのかもしれない。


Level 1.4
オカマの生き方に憧れ、自分の属性のマイノリシティーを相対化できる。

「自分の将来の夢は?」
「お前のやりたいことはなんだ?」

と大学生になってからの約2年間、尋ねられ続けてきた。
私は東京では意外と有名なビジネス色の強い学生団体で活動をしている。
そこに集まった仲間は、「起業」や「社長」を簡単に口にする、
「意識の高い」学生だったから。
現に先輩のいくらかは学生時代に起業をしている。
能力の本当にある先輩たちだ。
そして彼らは「有言実行、できる人」として、今でも私たちの憧れだ。
しかし私は何故かそれに対して、反発を覚えてしまっていた。


高橋伸夫教授が講義の初回で口にした言葉は、

「君たちには起業するメリットがない」

だった。
 ①早期に起業することはそれなりのリスクが伴う
 ②成功したとしても、社長の収入はそれほど高くない(公認会計士≒上場企業の社長)
 ③この大学の卒業生ならば、大手企業の人材育成プログラムに則って、
  若いうちに能力を磨いておけば、時間がたてば、偉くなれる
 ④どうしても社長になりたいのなら、中小企業に行けばなれる
 ・・・
ひどく、その通りだな、と思った。
まず現実的に考えて、「起業」の言説をひどく馬鹿らしく感じた。

しかし、ではロマンとしての「起業」。
「他人の敷いたレール」だとか、「主体性がない」という見方を否定する概念としての「起業」。
「起業」=冒険という意味なんだと、そのとき私は始めて気がついた(遅いw)。

「あなたの夢は何ですか?」という質問に、「起業」と答える多くの友人に対し、
「えらいね」と「がんばってね」という返答をやめたのだ。
「気をつけてね」と、彼らを送り出す気持ちが私には芽生えている。
概念的なずれもなんとなく理解できるようになって、
学生時代に起業という夢を持つことの意味も評価できるようになった。


軽々しい「起業」に私が納得できなかったのは、
私自身の夢が、「最も優秀な会社を作ること」だからだ。
(それはだから、現実的にとも、ロマンとして、とも違う、「ライフスタイル」の選択だった。)
皆が自分の仕事をきちんと楽しくこなす。
十分な利益を生み出す。
まだそのビジョンは明確ではないけれど、そういう会社を作りたいと常日頃考えている。
それは「手段としての夢」だ。
顔の見える人たち、名前を知っている人たちを幸せにしたい。
どんな勉強をしていても、自分と身近な問題にしか興味を示せない私は、
弁解のようにそう願っている。
世界平和を私は達成することなんてできないです。


そうしてでもだったらなぜ、私は官僚を目指すのか。
「国民」なんていう、訳のわからない人間を対象にして。
自分らしさなんて問われないような、残酷な職場。
どういう自己矛盾が起きて、そうなっているんだろう。

でも、私の中では何一つ自己矛盾ではない。
これを人前で言うことができないのが、本当に悲しいけれど、
私が官僚になる、ただ一つの理由は、「両親と友達が喜ぶから」だ。
そうしてそんな彼らを見て、私は素直に幸せだと思う。

両親もそれから小・中の友達もそんなに頭の優秀な人たちではない。
個人的な感想では、多分10年から20年くらい前の価値観(『渡る世間は鬼ばかり』のような)
に未だに縛られるところがある。
「官僚」=権威、権力、地位、名誉、お金…そういう幻想の中で、
彼らは生きているのかもしれない。

私がいつも思うのは、幻想は幻想のままでいいんじゃないか、ということだ。
彼らに、

「官僚なんてくそくらえだよ、大手企業なんてくそくらえだよ。
 今はね、ベンチャー支援の弁護士とか特許管理の弁理士とが儲かるんだって!」

なんて言うことが私にはどうしてもできなかった。
彼らの持つ概念を私が具現化して、そしてそれをうまく演じきることが、
いつしか私の役割になっていたし、そういう「期待を裏切らない」演技が
いつしか私自身を支えてくれていた。
つまり、演技だと思っていたことが、本当に楽しくなり、本当に好きだと思えた。
この大学に入ったことも、そして留学をすることも。
彼らの価値観に照らした決定が、いつしか私自身を幸せにしていることに気づいて、
最初はやはり戸惑ったけれど、そして多くの大学・高校時代の友人には理解されないけれど、
でも私は自分のその、どこでも楽しく生きるということに自信をもった。
官僚がダメだと言われれば言われるほど、私は抽象概念の「官僚」を追い求め、
そして両親の前で、「幸せだ、やりがいがある」と言い切る自信がある。

と言っても、一生この働き方をするつもりはさらさらない。
官僚を知ったら、次は大手企業でも、事業立ち上げでもいい。
中小企業をもっともっと日本で作りやすくして、多くの人の生活の中に、
職住の区別が曖昧になるような社会ができればいい、
というのが私の一つの夢(「状態としての夢」、かな)。
それを実現するにいろいろな立場に立てばいいことだ。

Level 1.3
夢に確信を!前進あるのみ!