初老の婦人が僕の飲み物を運んでくれた。婦人にミロを見ていること気付かれたのではないかとひやりとした。再び、さり気なく覗いてみる。彼女は重厚な茶革のかばんから、菫色の便箋を取り出した。誰かに手紙を書くのかな、と僕は思った。すると、先程かき混ぜていた花びらを、小さなスプーンで便箋の上に一つ一つ並べだしたのだ。気がおかしいんじゃないか。呆気にとられ、しばし呆然と見ていると、彼女は僕の視線に気づいた。
「何ですか? 」
彼女はその崇高な眉を険しくひそめた。抗いがたい美しさに、僕は思わず絶句する。頭から言葉が出てくるまで
の時間が、かなり長く感じられた。
「いや、別に、何も…。ただ、何をしているのか気になって。」
「…花びらを? 」
「あ、はい。その花を、一体どうするのかなと思って。」
彼女はふふん、と鼻で笑った。僕のことなんかまるで興味がないようだ。またスプーンで花びらを乗せ始めた。よく見ると、何かの模様になっている。
「何をしていても、いいじゃない。当てられたら教えてあげる。」
「額縁に飾るの? 」
初めて敬語を使わずに彼女に話しかけられた。
「どんな額縁だって大きすぎるわよ。あぁ、もう花びらが無いわ。おしまい。」
「何か手伝ったほうがいいかな? 僕の絵の具でも使う?」
「どうもありがとう、でも、いらないわ。小さな押し花だから、これで充分。」
そういって、彼女は便箋を、青白い細い指で二つ折り、楽譜の真ん中に挟みこんだ。彼女がもうすぐ店を出てしまうのではないかと思い、沈黙の中で言葉を探していた。
「クレーが好きなの?」
慌てて繕う。
「あ、これ? 今、抽象画の表現を勉強しているところなんだ。」
クレーの画集は買ったばかりで、もちろん店の中では彼女ばかり見ていたから、表紙しか見ていなかった。
「ふうん、抽象画の表現っていったい何を勉強するのかしら? いかに勢いよくインクを飛ばすか、とか?」
「いや、抽象画が生まれた社会的背景とか、マン・レイの技法とかさ。」
彼女はただ中空を眺めていた。何の興味もなさそうに。
「はは、興味ない?」
「よく知らないから。あなた、美術科なの?」
「まぁ、一応ね。」
「へぇ、そうなの。じゃあそろそろ私、行くわね。個人レッスンがあるから。」
彼女は軽く手を振り、ドアを開けていってしまった。疲れた。彼女と話していると、自分の気持ちを悟られたくないがために、表情や言動、何もかもが作為的になってしまう。それをミロに見られている間抜けな自分を想像し、羞恥心に苛まれる。けれど、風は爽やかだ。僕は彼女の残した杏の香水の香りを、大きく吸い込んだ。