昨日関西の病院に無事たどり着き
移植のための第一歩を歩みはじめました!
何度もいいますが
移植予定は5月27日です。
今からほぼ二週間後。
移植に対して不安がすごくあるので
主治医の先生や、今回の術前の担当看護師さんに
質問しまくりでした。
術後、ほぼ必ずと言っていいほど
私は首辺りに穴を空け
人口呼吸の管を通すそうです。
術後は口から、人口呼吸の管を入れるそうですが
口からだと、二週間以上管を通すのが危険なそうで、より危険を減らすために首から穴を空けるそうです。
今、私は呼吸の悪化が
移植経験の多い病院の中でも、1番悪いそうです。
このことに関しては、
ある意味名誉なことでございますV(^-^)V
肝臓移植が日本で初めて実地されたのって
1989年、つまり私が6歳の時なんですって
22年の歳月を経て
この病気に関わらず、数々の肝臓の病気の治療方法として、確立されつつあるという状態です。
22年前。
…22年前ってどんな世界だったか…覚えていますか?
今では一人一台といわれる、便利な携帯電話
周りに持ってる人はいませんでした。
働くようになり17歳で初めて…まだモノクロの携帯電話を持ちました。
便利なパソコンももちろん、22年前にはありませんでした。
パソコンを初めて買ったのは20歳
今から8年前です。
何の話をしてるんだ?
と思う人が沢山いると思う
説明します。
最近、私や私の母に対して病気に対する知識がなさすぎるという言葉や、
向き合う気持ちが少ないというお叱りをいただきます。
特に同じ病気のお母さんからの言葉です。
私はともかく、母をそういう風に言われることは
私にとって1番許せないことです。
そして、同年代の同じ病気で亡くなった方々にも失礼で
もっと上世代の原因不明で亡くなった方にも大変失礼です。
母は、パソコンもない情報もえられない中
医師にもまだ馴染みの浅いこの病気を発見するために、幼い私を抱え
走りまわりました
母として、何かがおかしいと察知して
私を産んだ時、まだ母は22歳、仕事だと言って帰らない父だったので
ほとんど、一人で走りまわりました。
生まれた土地の奈良の病気では『わからない』病気でした。
大阪で『もしかしたらそうかも?』で生後三ヶ月の私はお腹を切りました。
新生児は痛みを感じないと言われ
泣き叫ぶ私を見ながら
ただ母は泣きつくしたそうです。
医師が患者に病状を説明しなくてはいけないという義務はなく、
どんなに不安でも医師に任せることしか出来ない状況でした。
その医師もまだ認知してない病気です。
同世代の胆道閉鎖の人は
28年で二人しかあったことがなく、一人は6歳の入院のとき
ある朝起きたら、その子はこの世からいなくなってました。
…一生忘れません
もう一人は、12歳のとき
何度も何度もお腹を切っている子でした。
彼女とは仲良しでしたが
阪神大震災で家が倒壊したという連絡のあと
連絡が取れなくなりました。
どこかで生きていると信じています。
だから、私は思うんです。
今は不治の病でも
明日まで生きることで変わる命があるって
だから最後まで諦めないっていつも誓うんです。
母が私がうまれた時に諦めなかったように。
私の体は沢山の命によって支えられた命なんです。
少しでも、伝わりますように
そして、この命が次へのバトンになるように