洞窟のイドラ
バックホーンの「夢の花」に説教をされた私ですが、
どうしても自分が好きになれない。
そもそもの自分の存在自体疑問に思っている。
自分といっても「他人」と「羅生」の狭間のような部分に疑問がある。
インターネットを利用して他人と触れ合うのと、身体で触れ合うの。
どう考えても同じとは思えない。
人と人とのふれあいの意味。それこそどんな意味があるんだろうか。
私は誰かが存在して、自分が存在しているんだと思っている。
それはまったく知らない人かもしれないし、自分の身近な人なのかもしれない。
そして誰かの存在は私がいるから、その人はそこにいる。
人間はみなP2Pの連鎖関係だ。
対立せずとも人は人でいられるのか?
自分が人として存在しているのは誰かがいるからなんじゃないのか?
もしこの地球に自分ひとりで生きることになれば、私は人間だという意識が薄れ、次第に消えていくんじゃないかと、何度も思うのだ。
それはココに人間が存在し、認識できる。いわば先入観や固定観念といったイドラではないのかと。
そうであるのならば、人間などは幻想にすぎない。
存在しない存在なんじゃないのか・・・。
インターネットに接続した状態で誰かと会話をして、誰かは私を存在と認知する。
握手をしてお互いが名乗りあう。
この2つは、何が固定観念で何が先入観なんだろう。
この体はどういう意味で存在しているんだろう。
個別された私と集団の私。
大衆である私。
大河の一滴。