2011年10月5日この世を去ったスティーブ・ジョブス。彼が生きていたらこんな社会ができていたに違いない・・・というナレーションで、生活の様子がVTRに。
56歳の若さで死去した彼を世界中の人たちが悼んだ。まるでロックスターのように。何故それほどまでに魅了するのか?
彼の周囲の人々にインタビューした。「片腕」「宿敵」「苦悩を知る友人」など。
全てのエネルギーをコンピュータにささげた男の光と影とは。
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クリス・ペプラーがナビゲーター。
「ハングリーであれ。愚かであれ。」はスタンンフォード大学の講演で語った言葉。
第一部
若き日のスティーブはバイクをぶっ飛ばす、当時のカウンターカルチャーの只中の若者だった。ジョン・レノンのように革命を起こしたいと考えていた。そんな彼が雑誌「ダビンチ」に出会う。いろんな道具が紹介してあるもので、ここでコンピュータという新たな「道具」に出会う。
16歳のとき、スティーブ・ウォズニアックと出会う。二人で革命を起こし誰でも使えるコンピュータを作ろうと話し合った。
当時のコンピュータは大会社が持ち専門家が扱うものだった。
二人はガレージで開発を始めて、翌年アップル2を完成させて、600台を売り上げた。大きな稼ぎになり、さらにどうすれば向上するか考えた。
悩んだときにゼロックスに強引に押しかけて、協力を仰いだ。
そこでマウスとウィンドウを見る。何故商品化しないんだ!と詰め寄ったスティーブ・ジョブス。何故こんな便利な機能を一部の人だけが使用しているのか?
早速行動に移し、製作に励むとともに、清涼飲料会社からもジョン・スカリーをヘッドハンティングした。マウスで絵が描ける技術と、フォントの開発を急がせた。
ジョブスは開発者達を罵倒しながらも1984年、マッキントッシュを完成させた。
発表会では、演出に拘り、コンピュータ自身に話をさせる方法をとって喝采を浴びた。さらにCMを製作。体制による支配を打ち破り個人の意思と自由を尊重する女性兵士。そんな内容だった。まさにカウンターカルチャーの精神そのものだった。
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クリスがナビゲート・・・ジョブスはゼロから技術を作るのではなく、あるものから目利きでコンバインしていく。
第二部「革命を世界に」
ジョン・スカリー「人々はマッキントッシュをまるでオモチャだと言った。ジョブスはそれに焦りと怒りを持っていた。」ジョブスは当り散らし、ジョン・スカリーとも対立した。
値段を下げるべきだというジョブスに対し、ジョン・スカリーは「会社を辞めるべきだ」と三行半を突きつける。失意のうちにジョブスは会社を去る。
30歳だったジョブスは別のベンチャー企業を立ち上げて、開発者に厳しいノルマを課す。ジョブスは圧倒的な処理能力に拘った。
開発は難航し、期日は遅れに遅れた。最高の性能に拘るあまり、出来上がれば値段は高くするしかなくなり、全く売れなかった。
駆り立てられるように突き進むジョブスの生まれとは
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父親は中古車販売をしていた。自分は養子だと聞かされていた。「自分がナニモノなのか」悩んでいた。生みの親に捨てられたと思い、大学時代はドラッグにものめりこみ、7ヶ月もの間インドを放浪した。23歳で恋人との間に子供が出来たが認知を拒否した。
自分が世界を変える男になるという強い意志が出来上がっていった。
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ルクソーJrのグラフィックとフィルムを見たジョブスは、「性能の良いコンピュータを作ることではなく、コンピュータを使って感動を与えることだ。」と考えるようになる。
トイ・ストーリーでかつてない大ヒットを飛ばしたジョブス。
その彼の前に立ちはだかったのが、ビル・ゲイツだった。
OSの世界でwindowsは圧倒的な支配をして、アップルに市場はますます狭まった。そこで呼び戻されたのがジョブスだった。
彼はCMを作る。世界を変えた偉人達のフィルムにジョブスがナレーションを入れた。彼の挑戦だった。ウィンドーズの牙城をいかに打ち破っていくか。
彼は女性や子供をターゲットにして、斬新なデザインや、使い勝手を重視。
家庭で使いたい人のニーズにマッチして大ヒットし、アップルの業績は急回復した。
この頃、プライベートでも結婚し2児をもうけ、認知しなかった23歳時の子供も引き取った。
彼のプライベート写真を撮影し続けてきたカーリーさんは「家庭を大事にするようになった。」と語る。
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2005年のスタンフォード大の演説で「私は一度止めてしまった。落伍者だと思った。」と
第三部・・・目指すもの
NHKの番組に出演した際のインタビューが流される。
人間とコンピュータの新たな関係を築きたいと熱く語っていた。
その後、音楽をコンピュータにダウンロードして、それを携帯して聞くという方式を考えた。ジョブスはコンピュータによる「デジタルハブ」を説いた。
ジャーナリストのアイザックトンさん「人々のライフスタイルを変えるコンテンツを作りたいといっていた。」
ジョン・スカリーは25年前に、オフィスの中でひとつの模型を見せられたという。マックフォーンという未来の電話の姿だといって。
それが2007年のiphoneにつながるのだった。
この頃、がんに冒されていた。しかしジョブスは弱気になるどころか、精一杯働き、若者を叱咤し、夢を追いかけていた。
シリコンバレーのある技術に目を付けた。人間の言葉に反応してレストランの予約を取るといったSFのような世界の技術だった。
ダグさんらがその開発をしていた。ジョブスは電話して、この技術を新たな携帯電話に搭載することにした。
2011年10月iphone4sがそれだった。
発売発表の翌日にジョブスは息を引き取った。
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ジョブスはホームコンピュータに革命を、音楽業界に革命を、携帯電話に革命を もたらしたが、さらに頭で考えたらコンピュータが何かするようなことを考えていた。
10代の頃考えていた途方も無い夢をひたむきに追い続けたジョブス。
亡くなる直前に残した言葉・・・先人が残してくれたものに、何かを追加しようとしてきた。そう思って歩いてきた。