あの戦争を体験した人が世を去ってしまい、ほとんど居なくなってしまう。

竹本さん101歳。「子供が小さくてさんざん泣いたけども・・・」と絶句。傷跡はまだまだ根深く残る。

照屋さん88歳、ビルマ戦線で将校だった中村さん86歳、などなどの証言を追う。

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8年に渡る昭和の戦争は、田舎の人も含めて総力戦だった。戦死した日本人300万人。アジアでは一般人も含めて1200万人が戦争で死んだ。

「するべきではないことをした。とんでもない人殺しをしてしまった。」

「むちゃな戦争してしまったなあ。」80代以上の人が語る証言は重い。

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中国との戦争は広大な土地に常時20万人の日本兵が派遣されていた。

戦争は8年に渡り続き、日本から大量の兵士が派遣された。

山口さん86歳「夜の点呼が怖くてな。みんな連帯責任でビンタされた。はむかうと銃殺されたから。」

独立混成旅団の中村さん92歳「精神的にまいって自殺した人もいた。入って三月くらいで。」

兵士達は予想をはるかに超えた厳しい戦いを強いられた。欧米諸国の後押しを受けた中国の抵抗にあった。

衛生兵の飯塚さん85歳「死ぬにはどうしたらいい?みんな死にたい死にたいと言っていた。」

歩兵第34連隊深津さん「死体が腐ったのがゴロゴロしてる中で食事をするのがなんともない世界になっていた。」

中村さん「死んだ仲間の指を飯盒にいれて骨だけを持って帰ったんだよ。」

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長野県坂戸橋。兵士をここで見送った。中川村(旧南方村)はこの橋を通して戦争と繋がっていった。

湯沢さん88歳は当時14歳で、この橋で兵隊さんを見送った。

下平ちさとさん96歳。日中戦争開戦当時26歳。夫となるひともこの橋で見送った。

南方村は、記録がたくさん残っている。最初の戦死者となった竹本忠市さんは、3ヶ月で銃弾に倒れ、村で最初の戦死者となった。

妻の竹本ひさゑさん101歳は存命だ。戦死の報道は僅か5日後に新聞に載り、二人目の戦死者が出たときに村をあげての葬儀が催された。

800人が参列した、ひさゑさんは「恥ずかしいやら悲しいやら、みんなで応援してくれた。」、農作業などはみんなが協力して手伝ってくれた。

南方村の守り神「八幡神社」、兵士が戦場に向かうたびにここで村のものが祈った。

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中国北部山西省。北海道の2倍の土地を兵士達が守ることになった。要塞はたびたび襲撃を受けた。

鈴木定平さん94歳「戦地にいった最初の日に、弾を受けたり、戦死した人を見た。ショックだった。」

「トラックが何台も焼けているのを見て、連戦連勝の日本軍と聞かされていたのでビックリした。」

中国の八路軍はゲリラ戦を繰り広げ、多くの農民を民兵として育て、日本軍を苦しめた。

中村さん「鍬と鉄砲を持ってる。」、中村さんの任務は日本軍に協力的な中国人を増やすことだった。中村さん「わたしらは結婚式にも招待されました。けれど油断はできなかった。鉄砲を持ってないんで。」

八路軍に対して、日本軍は「殲滅」「殺戮」もやむなしとした。徹底的な討伐を指示した。

宮路さん「部落で、祭りやら芝居やらあるときに、いっぺんで襲撃しました。めちゃくちゃになりました。一般の人は、皆逃げました。」

近藤さん「河原の中に追い込んで襲撃するんです。みんなバタバタっと倒れる。教えられたとおりに行動するんです。」

近藤さんは初年兵のときに、70人の初年兵の訓練は、くくりつけられた中国兵に、銃剣を突きつけて「突け」の命令で突いて殺すことだったという。

宮路さん「戦争だったしなあ。情けなかったですけど。」家族にも語らなかった話だった。「良かったかどうなのか、端っこの人間にはわかりません。」

入隊する前までふるさとの仕事に精を出していた若者達が突きつけられた戦争の現実だった。

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戦争は長引き、大本営は略奪や強姦などの軍規の乱れを危惧する事態になった。略奪で処分された兵士は数十万にのぼった。

山元又兵衛さん「強姦で懲役で行きました。」、陸軍はこうした事態に「戦陣訓」をつくり配布する。この中に「生きて虜囚の辱めを受けず」の文があり、自らの死を選ぶことを称えた。戦陣訓は歌になり、各レコード会社が広めた。

昭和16年12月8日太平洋戦争勃発。戦陣訓は当初の目的をはずれて、兵士は死んでこそ尊い、捕虜となると親兄弟も辱めを受けるという受け止め方が一般的になり、兵士達は自決という手段を選ぶことになる。

ルッツ島で捕虜となった元兵士は今でも「恥をかいているんですから」と自分を責める。

戦場での死を称える流れは田舎の村にも広く知れ、南方村にも出征兵士に寄せ書きが行われたが「粉骨砕身」といった言葉が寄せられた。

湯沢さん88歳も出征することになる。村長は寄せ書きに「くだけてかえらん」つまり死んで帰って来いという内容の寄せ書きをした。

生きて帰れると想って出征した兵士はいなかった。

太平洋戦争当初は日本軍勝利に熱狂し、村にもその熱が届いた。「国を増やすために戦闘するんだ。」

伊那谷は、当時、天候不順で不作になり、村人も戦争に活路を求めた。

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ちさとさんの夫の米男さんは、沈没した船に乗り込んでいて、南方の戦場に向かう途中に命を落とした。

夫婦には2歳の子供と、おなかの中にも赤ちゃんがいた。「’あとは頼むぞ’と言って行ったんだ。」

太平洋戦争後拡大した日本の勢力。それを打ち破ろうとする列強。

最激戦地となったのがフィリピンだった。圧倒的な火力・兵力のアメリカ軍。

「裸で体中が火ぶくれで、気の毒だった。」

「屍を乗り越えてというけど、もったいなくて」

レオテ島の戦いでは7万人の日本兵が犠牲になった。

秋田県の荻原さんは、かろうじて生き残った。「今生きて立って明日死ぬ。明日生きていてもあさって死ぬ。生きて帰れるとは想わなかった。」

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抗日ゲリラもフィリピンに結成され、「木登りが上手だモノ。ヤシの木の上から狙撃された。」

「指や耳の無い兵士がたくさんいた。それを持っていって日本兵を殺したという証拠にした。」

民衆の敵意に囲まれた戦場だった。このままではアメリカと闘う前にやられると考えた上層部はゲリラ討伐を命じる。

伍長の鷲田さん「部落ごと女も子供も皆殺してしまえということで、皆殺した。」

「銃剣で殺す。銃殺すると音が出るから、運ばれてくる人が恐怖心を起こす。」

「命令を受けてやらなければ死刑になった。軍法会議で殺される。」

戦場での過酷な任務は、多くの命を奪うことになる。兵士は「現在から思えば、人間としてやるべきことではない。今思えばフィリピンの住民に対しては申し訳ないことをした。なんでやったかなあ。とんでもない人殺しをしてしまった。

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長野県南方村も多くの若者達を戦場に送った。

竹本さん「犠牲者が片っ端から出てしまって。」

下平さんは今も夫の死を信じきれないでいる。「今でも生きていると想うときがある。」

坂戸橋、吉澤さんは60年前にこの橋を渡って出征した。子供のときから多くの兵士を見送ったが、自分が出征するときには様子が変わってきていたという。「いつものことになっちゃって、最初の頃よりは粗末になったかな。」

いつ終るとわからない戦争に村も疲弊していった。その後も含めて462人の若者が多くは太平洋戦争に向かい、兵士達は玉砕に追い込まれていく。

兵士達はお守りにしていたのが、寄せ書きだった。絶望的な戦いの中で、唯一故郷と繋がっていたののだった。