戦争によって翻弄されて、人々は夢や希望を失った。がしかし立ち上がる。

竹下景子、19歳で女優デビュー。クイズ番組で「元祖インテリ女優」の称号。

女優生活38年、いまだに壁にぶつかることがあるという。そんなときに思い出す父の言葉。父だったらどうやって乗り越えたんだろう。父の歩んだ歳月が、何かヒントになるのでは。番組では竹下の父の足跡を追う。中国での戦争体験。日本に戻ってからの弁護士としての奮闘。

その取材内容を初めて見る竹下「少し怖いような気がします。」

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名古屋のバーで決まって美空ひばりを歌う。竹下重人。着る物も格好も気を使わずに、頭も洗ったまんまだったという。

80歳を過ぎても弁護士をしていた。専門は税務訴訟。国が相手になるため、勝つことは難しい。300件取り扱って勝ったのはたった10件だった。負けても負けても挑んだ。一匹狼の庶民派弁護士だった。

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長崎針尾島。現在はハウステンボスがある。この一角に竹下家はあった。

重人のめいが住む家に、小さいときの資料があった。重人の父は国鉄勤務だったが貧しかった。

小さいときから成績抜群で、成績表は全て「甲」、裕福な友人の家に行っては読書にふけり、「少年倶楽部」の物語に出てくる満州国の話に夢を膨らませた。希望の大地と喧伝されて、移住を促す国の政策もあり、満州へ行く希望を持った。

極貧であったが、両親が工面して旧制中学に入り、ここでも成績抜群だった。その後の進学は諦めていたが、成績優秀者を援助する仕組みができて、長崎から名古屋商高という名門校に入学した。

ここでも満州に渡る夢を作文に書いている。常に苦学を余儀なくされた重人にとって満州は希望の地であり続けた。

入学2年の昭和16年、太平洋戦争勃発。徴兵検査をうけるが検査で強度の近視ということで、徴兵されず、重人は満州の役員になるべく試験を受けて合格。ついに憧れの満州へと移る。

人材養成施設「大同学院」に入り、ここにはロシア人・朝鮮人・中国人も学んだ。

今年15期生の同窓会が都内で開催された。みな90歳前後。満州国の官僚だった人たちだ。満州に大きな夢を持っていた。

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重人は義県に赴任。新京から南に500km。比較的温暖な土地だ。

当時を知る人を捜す。顧恩林さん94歳。当時は19歳だった。「魚釣りが好きで、村人とも良く話をしたという。」

村をくまなく回り、綿花の栽培方法を見直し成果が上がり、村人も一目置くようになった。

李さんの家の長老は、娘を嫁にどうかと勧めたという。当時の写真は文化大革命で処分されてしまい無くなった。

そんな重人に「徴兵命令」が着いた。ソ連の侵攻に備えて兵力を増強していたため、「根こそぎ徴兵」がその時の政策だった。

竹下「良く、ご親族の方が覚えていてくださって、うれしいです。」

竹下「自分の理想に向かって励んだ時期だったと思います。」

ソ連の侵攻により、重人は戦うことなく奉天で拘束される。このとき中国人は日本兵に「早く出て行け」と叫んだ。そこで他人の家に土足で上がりこんだということを認識する。

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捕虜となりシベリアに抑留された重人。極寒の地で、食べ物も乏しく、仲間達は次々と亡くなった。

その頃スターリンは捕虜に民主運動といわれる洗脳教育を始める。重人はリーダーに任命された。演劇活動を行うことになり、重人は脚本を任された。笑いを取り入れた演出は捕虜達に好評だった。

日本への帰国が決まったが、その帰国船の中で、ソ連の片棒を担いだという理由で数人に囲まれてリンチを受けた。

舞鶴に着いたものの、アメリカが思想教育を受けたものをあぶり出すため、厳しい尋問を行っていた。日本に帰国しても監視の目が張り付いた。

故郷長崎に帰っても「ソ連のスパイ」と後ろ指をさされた。ようやく入社が決まったと思いきや警察から圧力がかけられて就職を取り消された。落ち込む重人。その後も就職活動を続けるが、採用してくれる会社は無かった。

そんなときに目にした「名古屋国税局職員募集」、嫌われ者になるため成り手が少なく、希望すればすぐに採用された。

国税局は税金未納者のところに行き家財道具を持ち出す。「お前には血も涙も無いのか!」といわれながら。

昭和27年見合い結婚、28年に長女の景子が生まれた。

ようやく平和な家庭が築けたと思うが、今度は「租税の強制執行がただしいのか?」と仕事に悩み続ける。

そんなとき、重人は戦争という経験を思い出す。そして出した結論が弁護士になって国と闘う!ということだった。

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猛烈に勉強し、わずか4%の合格率だった弁護士に合格。

国が相手の訴えは連戦連敗。意見する仲間もいたが、意思を曲げることはなかった。

「実務家に徹して執念深かった。」と現役を知る弁護士が語る。

竹下「戦争体験と弁護士のつながりというのはうすうすは感じていたが、いろんな圧力を受けていたのは、’これほどまでだったのか’ということを初めて知りました。弁護士になったということが腑に落ちました。」

竹下「事務所を開いてからはいつも忙しくしていて、風呂敷にいっぱい書類を包んであちこち走り回っていたんです。」

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昭和45年、47歳になった重人は高校生になった景子にある期待を持つ。弁護士になって一緒に働いて欲しいというもの。

しかし景子は女優の道に進む。重人は何も言わなかった。シベリア抑留時代の演劇が実は力があることを身をもって知っていたからだ。

誰かが後を継ぐという希望は絶たれたが、重人は相変わらず、勝ち目の薄い弁護を続けていた。

福岡で講演したあと、ホテルで心臓発作で世を去った。

・・・人生とは自分で歩いた道筋。一足飛びにはいけない。着実に歩むしかない。・・・

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竹下「どんなことがあっても乗り越えていけるんだ。多分そう言ってくれると思います。」