長崎平和公園。8月9日毎年平和の祈りがささげられる。

昭和23年、初めてここで祈りのきっかけを作ったのは、長崎占領軍司令官のデルノアである。

今年1回目の式典での原稿が発見された。そこには「核兵器は無用の長物である。二度と使ってはならない」と書かれていた。

言論の規制が行われていたが、長崎の少女の作文を出版しようとした。

軍人でありながら、何故国の方針に逆らってまでそうしたのか?

デルノアは1枚の絵を残している。原爆で焼かれた礼拝堂の絵だ。その絵を所持する娘が、今年長崎を訪問した。

----------------------------

娘のパトリシアは1歳の誕生日を前に長崎からアメリカに引越ししたため、長崎の記憶は無い。

パトリシアは自分の目で「長崎」を確かめたいと思った。

昭和20年8月9日、広島に続き長崎に原爆が投下された。数千度の熱風と爆風、放射線が襲った。デルノアはその1年後にGHQの司令官として長崎に赴任した。

竹内敏郎さんが通訳に当たったが、第一印象は「いかにも軍人」だったという。

1939年第二次世界大戦勃発。2年後にアメリカも参戦。デルノアはフランスに中佐として派遣されて、ドイツ軍と戦った。連勝して味方の兵士を救った武勲をたてた。戦場での功績を認められ、いくつも勲章を受けて、輝けるアメリカのひとつの象徴だった。

アメリカを信じ、日本に自由と民主主義を根付かせるためにとやってきた。

----------------------------

ある日デルノアは引き取り手の無い遺体を供養する法要に参加。

そのときの遺族の悲しみ、1万体の遺体と嘆き悲しみ遺族達を目にして動揺を隠せなかった。両親に手紙でそのときの様子を伝えている。

----------------------------

高原至さん87歳と面談するパトリシアさん。高原さんは「お父さんに良く似ている。」と印象を語る。高原さんは当時記者で長崎をくまなく歩き回った。デルノアさんにはところどころで出くわしたという。

「彼は目線を同じにして見ていた。今になって思うと」

長崎医科大学付属病院、8月9日は何千人もの被爆者が訪れ、有効な手当ても無いなか、次々と亡くなっていった。そういう状況を高原さんが語り、パトリシアさんは涙を流す。

----------------------------

デルノアさんがそういった光景を見たのは初めてではなかった。

デトロイトに住むビル・ウィリアムズさん89歳。戦車の記録部隊として従軍した。

フランスからドイツ、オーストリアと進軍。その途中の町で強烈な悪臭をかいだ。死体を燃やす匂いではないかとウィリアムズさん。

「ブーヘンバルトの収容所だったと思います。」

ドイツ・ワイマールから数キロはなれた場所にそれはあった。

強制収容所では強制労働や人体実験で死んでいった。その数55000人。

奇跡的に生き残ったボルグさん。親衛隊は収容所の全員を殺戮するよう命じられた。アメリカ兵がやってきたときにまだ生きていたのは2000人たらず。みなやせこけて、見るに忍びない状態だった。デルノアさんはこのときの気持ちを両親に手紙で伝えた。「ナチスの馬鹿野郎。なんてことをしやがる。」

パトリシアさんは父の足跡を追う。

----------------------------

内田伯さん86歳、案内人をしている人に聞く。当時内田さんは15歳。爆心地から15Mの場所に自宅があった。仕事の場所から戻ったら、跡形は無く、家にいたはずの父親、弟や妹の姿も無かった。遺体はおろか遺骨すら無かった。「夢であって欲しい。と今でも思う。ひとりの人間としてやりきれない思いをずっと抱えてきた。」

内田の母親は夫と子供たちの位牌を作ってもらった。「多くの人から惜しまれて亡くなるのが普通。こんな無残な方法で・・・。例えようの無い無念さが小さい位牌に閉じ込められている。」

----------------------------

翌日、内田さんはパトリシアさんたちを案内し長崎市原爆無縁死没者の施設に行く。許可を得て中を見せてもらう。そこには遺骨が納められていた。8000余もある。身元の分からない遺骨、身元がわかっても引き取り手の無い骨。あの日から66年経った今も安息の場所は無い。

パトリシアの日記「私はそこを動くことができなかった。父は長崎の話をしなかったけど、たとえ話そうとしても話すことができなかったんだと思う。」

ヒトラーの率いるナチスを倒し、自由と民主主義を掲げたアメリカが、長崎でナチスと同じようなことをしたことにデルノアは衝撃を受けた。

----------------------------

長崎からアメリカに戻ったデルノアは驚くべき行動に出る。

ひとりの被爆者が書いた手記を出版するよう、上層部に働きかけた。

手記を書いたのは石田雅子さん。14歳で被曝した。雅子さんの兄の攘一さんが沖縄に存命だった。

しかしアメリカはそれを聞き入れることは無かった。

ジョン・ダワーMIT教授はいくつかの理由があったと考える。

①反米感情の火種になるようなことは隠蔽する。

②原爆の言論統制をしていた時期は東京裁判が行われていた時期と重なる。

その状況で上層部に掛け合うことはとても勇気のいることだったろうと教授。

----------------------------

その後の東西冷戦、核実験の挙行は、地球破滅の危機を孕んできた。

デルノアは再び動いた。それが「二度と原爆を使ってはいけない。」という長崎を見てしまった軍人としてより人間としての発露だった。

----------------------------

パトリシアさんは父が残した絵の場所を尋ねる。原爆で焼かれた教会だ。

パトリシアは長崎で生まれ洗礼を受けた。デルノアはパトリシアのことを「ナガサキベィビー」と呼んで可愛がった。

デルノアは昭和24年にアメリカに帰国するが、その送別会に石田雅子さんの父親が呼ばれた。

父親は「パトリシアさんは長崎の子です。そのことを伝えてください。」とデルノアに語ったという。

デルノアはずっと大事に絵を持っていて、それをパトリシアに「お前が持つべき時が来た。」と渡したという。

パトリシアは今その意味を理解した。

----------------------------

1998年83歳でデルノアは世を去った。晩年、取材に訪れた記者に「(原爆を落とした)トルーマンは間違いを犯した。」と語ったという。

デルノア「約束しようではありませんか。二度と原爆を使ってはいけない。」