1912年創業、吉本泰三・せい夫妻が始めた寄席が最初で、エンタツ・アチャコが一世風靡。

1963年には吉本新喜劇がテレビ中継されてた。さらにその後桂三枝などテレビ普及とともに人気を博した。

2010年7月、「ライブスタンド2010」には2万人が訪れ、人気芸人のお笑いライブを体験。出演した芸人は270人にのぼった。

30年前までは関西エリアが中心だったが、今は売り上げの7割が関東エリアである。

その礎を築いたのが現社長の大崎だ。だが社長の大崎を知らない芸人もたくさんいる。

芸人の年収も様々で1万円から10億円までピンキリだが、吉本の売り上げは1978年40億円が、2010年には490億円。

1980年に東京事務所を立ち上げた中心が大崎。漫才ブームを巻き起こし、紳助「全てを犠牲にして仕事をしてきた。」

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スタジオで

大崎「社員とタレントの区別が付かない」「契約書が無いし、中卒・高卒で入ってきて死ぬまで’吉本やねんなあ’という独特のコミュニティが出来上がっている。」

大崎「給料は歩合制。10億のキリのほうは紳助・さんま・ダウンタウンなどかな。」

龍さん「入社のきっかけは?」

大崎「当時は10月1日が解禁日で、吉本も会社なんで受けてみようかと思った程度。頑張ろうというような気持ちは無かった。」

龍さん「そうすると、どこかに転換点があったのでは?」

大崎「東京に出てきて売れない時期、さんまの思いや、ダウンタウンの相談事を聞いたりしたことかな。何時間も喫茶店で話したこともあった。」

当時、漫才ブームは2年で終り、芸人の中でも焦りがあったという。

紳助「まず音楽から変わった。それまでは老若男女が歌える歌があったが、一部の人たちだけが歌うようなものが出来てきていた。笑いも変わるんだと思った。」

1982年、吉本芸能学院開設。この学院の一期生にいたダウンタウンと劇的な出会いをする。

浜ちゃん「メガネの男、誰やねん!と思った。」

松ちゃん「仕事の出来る人じゃないやろなと思ったが、’社長になる’って言ってた。」

そしてこんなやり取りがあったという。

ダウンタウン「僕らをどう思いますか?」

大崎「おもろいよ。」

ダウンタウン「ならなんで売れへんと思います?」

これで大崎は新しい笑いの「場」を作らなきゃと思ったという。先は見えないがその方向に走り、1986年心斎橋劇場を開設し、若者達に受けた。コレを皮切りにダウンタウンは全国区に大ブレイクした。

なんば花月が団体客や年配客を取り込んでいたが、若者を取り込んでいった。

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大崎「(ダウンタウンを)見た瞬間、ぜんぜん違うと思った。」

龍さん「社会が求めるものを見出す喜びというものがあるが、それはたまらないのでは?」

大崎「あのころは一番楽しかったですね。(ダウンタウンは)発想が今まで見たものと全く違って、ネタがどんな方向から何が飛んでくるかわからないものがあった。」

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神保町のタレント養成学校NSC,ここで卵達が学ぶ。

渋谷のヨシモト∞ホール、ここでは駆け出しの芸人がしのぎを削る。オーディションの場であり、出演料は1000円で熾烈なレースが日々行われている。

ネットではよしログ、365日9時~生放送している。

新宿クリエイティブカレッジ、売れる商品を作る側を養成している。

笑いのトータル企業なのだ。大崎の「みんなが食べられるように」というスタンスにブレは無い。

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若手芸人がスタジオオーディエンス。みんな1時間前にスタジオ入りしたという。遅刻は厳禁のヨシモトなのだ。

大崎「立派な師匠についたからとか、真面目だからといって売れるとは限らない。」

小池「どんな経緯で芸人を目指したのか?」

フレミング「医学部出身で医師免許も取得したが、どうも違うと思ってNSCに入学した。」

小池「親はガッカリしていませんか?」

ここでうどんの一発ギャグと、フレミングがショートコントを見せるが、ほんとに面白くなかった!

大崎「面白い人はそんなにいない。でも’面白いかどうか’のものさしをはずすと、何を主張したいかが見える。」

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ここでローソンの被災地実効支援の放送があった。仮店舗で営業を開始した陸前高田市の店舗が放送された。6店舗流されたが、空いている土地を利用して、資金400万を本社が支援し、商品数1500点を数えた仮設店舗を開店。自家発電措置を備えてある。お客も待ち望んでいた。

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再び吉本の話に戻る。

新潟県十日町、この山間の町にディレクターが訪問し、映画の試写会を開いた。

地元の人も出演し支援した映画「雪の中のしろうさぎ」、ニセモノの芸術家が現れたことにより、巻き起こる騒動を描いているが、町の景色や料理がふんだんに登場する。

第3回沖縄映画祭でも地域作品7品を上映し好評だった。人気芸人を使って地域を活性化し、戦略として日本の地方を世界に売る込もうというもの。

大崎「日本の国・行政やマスメディアが忘れていやものをアジアなどの世界のマーケットに売り込みたい。」

早速大崎は中国のSMGに売り込みに上海に出かけた。「気軽に声をかけてください。」とSMGの経営者が答えた。「東京や大阪しか知らなかった人たちに、日本の地方が新鮮にうつる。」

吉本では35人がエリア社員として採用された。新たなビジネスに力が入る。

宮城県にも女性の社員は配属された。大崎「君たちの夢と希望が、日本の夢と希望に繋がればいい」

大崎「国際化というのは、東京から世界を狙いということだけでなく、小さな村の祭りがパリでブームになるといったこともある。」

ダウンタウン「棒を持って歩いてるんですよ。社長が」

笑いが気持ちのインフラになる。心のネットワークになる。

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編集後記・・・かつて日本人は日常的に笑う民族ではなかったが、このところ笑いたがるようだ。笑えば免疫機能が向上する。吉本興業は日本人の免疫機能を活性化している。笑いの効能、ほぼ独占