奈良県吉野山からスタート

国宝蔵王堂、吉野葛、などなど、吉野は山の中にあるが、静かな山里に朝廷を開いたのが後醍醐天皇。武士の世と闘い続けた型破りな帝。いかなる波乱を引き起こしたか、奇跡の逆転劇、全国に残る王子達の足跡、そこから見える後醍醐天皇の奮闘物語とは

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若き日の後醍醐天皇は恋した女性を奪ってみたり、鎌倉幕府に挑戦したり。

今から700年前、鎌倉時代は圧倒的な北条氏の力に、天皇の位も左右された。

当時皇太子だった後醍醐天皇はそれを嫌っていたという。日本の正当な君主である天皇・朝廷が政をすべきだと考えていた。

倒幕計画を密かに練ったが発覚し、天皇以外はみな処罰された。

養育係の吉田定房は後醍醐天皇に意見して幕府に従うよう諭す。

ところが後醍醐天皇は京を抜け出しカ鷺山にいた。幕府に反発する僧兵などが結集したが、いかんせん兵力が足りない。そこに楠正成が加勢に来た。

幕府軍は10倍の兵力でカ鷺山に襲い掛かり、後醍醐天皇軍は敗北。幽閉される。

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後醍醐天皇は、雅な世界にも通じていて、楽器や和歌に秀でていた。多芸多才だったが、このことも天皇を支えていたのかも知れない。

次は倒幕への軌跡を辿る。

後醍醐天皇は幽閉されていたが隠岐の島に流されることになる。

その途中、鳥取県のご飯を食べた場所とされる「ご飯石」、鳥取県江府町の御机は机に座ったとされる場所。このようなゆかりの場所が地名になているのが12箇所もある。

隠岐の牛突きは、島に流された人を慰めようとして始まったとされる。

しかし都への思いは断ち切れるものではなかった。

後醍醐天皇46歳のとき、楠正成が健在で幕府と闘っていると聞き、隠岐を脱出する。そのとき道に迷い、訪ねた家のものが背負って港まで連れていったという。その家、木村家には家宝として不動明王の彫り物と、なめると空腹を忘れる石が残されている。

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名和長年と後醍醐天皇の連合軍は山に陣取り、幕府軍に抵抗する。

これを聞きつけた足利が北条に寝返り、幕府への不満を募らせた武士達が天皇軍に加わり、逆転劇を演じる。

鳥取県琴浦町に残る「天皇水」は、天皇が石をどかせば水が出るといったところに出たと伝えられる。

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後醍醐天皇の皇子のゆかりの地は全国にある。それは何故?

1333年、京では後醍醐天皇が凱旋し建武の新政が行われた。

新たな政治は、武士の政治から天皇中心の政治になること。だが、武士の政治は戦いに勝ったものが領地などももらえるが、天皇の政治ではそういうことが無くなった。この不満から武士達は足利尊氏のもとに結集するものと、後醍醐天皇につくものに二分され、闘いが始まった。

この事態に楠正成は、足利尊氏との和睦を天皇に進言するが聞き入れられず、楠正成や名和長年は戦死。

49歳の後醍醐天皇は再び幽閉される。

しかし再び、京を抜け出して吉野に南朝をつくる。関西の武士達はほとんど北朝についた。

後醍醐天皇の作戦は、皇子を遠隔地に派遣しておくこと。親王は各地で武士の賛意を得て、勢力を増す。6人の皇子は皆、南朝側の有力な味方を増やす。

しかしながら、京の戦は北朝が勝ち、南朝は窮地に追い込まれ、後醍醐天皇にも時間は無かった。享年52歳で激動の生涯を閉じる。

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闘いはこの後5年も続くが南朝側が勢力を戻すことは無かった。

塔尾陵・・・後醍醐天皇陵とされ、北向きに鳥居がある。それは京を向いているのだ。

京都の嵐山にある天龍寺は足利尊氏が厚く保護した。尊氏の運命は後醍醐天皇によって変わった。「戦う相手、後醍醐天皇に感謝する」という尊氏の文書が残されている。