南の島、やせ細った人物の像がある。この人が西郷隆盛。われわれが意識するのは東京上野公園にある像だが、沖永良部島の銅像は頬のこけた優しい目の男。その生き方はとことんマイペース、自分の信じる道を進み、職場ではダメなものはダメと通した。殿様にも意見し、島流しに2回。

しかし江戸城無血開城など、やるときはやる。

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若き日の冬。西郷は坊さんと舟に乗っていた。思いつめていた二人は海に身を投げる。

下級武士の生まれの西郷は、食うにも困る生活だった。

子供の頃から大切なものには集中していた。

成長し武士として藩にあがると、同僚の腐敗を目にして、何度も上申書をあげた。しかし当然恨まれて、出世はまったくしなかった。

そんなある日、島津斉彬が西郷の上申書に目を通した。家臣に西郷の様子を尋ねると、口々に粗暴といった悪口を告げたが、斉彬はこういう時代だからこそと西郷を登用。西郷も期待にこたえた。

ところが安政の大獄があり、次々と幕府が不満分子を捕らえていった。

京都の公家から僧侶の月照を守るように依頼され、西郷は引き受ける。

脱出時に、関所を通過する必要があるが、籠を置いて堂々と茶を飲んで、幕府の目を逃れた。

しかし幕府の追手は薩摩にまで迫り、藩主は月照を藩の外で殺害するよう命じる。西郷はどうする?藩命に従うのか、信念に従い命がけで守るのか。

西郷は信念も曲げず、藩命にも従わずに海に飛び込むしかなかった。

月照は死去、西郷は一命をとりとめた。32歳だった。

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西郷の実像は?永山という影武者(?)、医者の小田原氏などが西郷と間違えられた。西郷はとても写真嫌いだったので残っていないのだ。

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沖永良部島の痩せた銅像。はて何故ここに。

西郷は助かったが、幕府のお尋ね者。そこで幕府の目の届かないところに隠れ住むことを命じられた。奄美大島では不自由なく暮らしていたが、政治の舞台にたって活躍するようなことはできず、呼び寄せてくれるのをただ待つ日々だった。

島津久光は京都にあがり、幕府に意見しようとしていた。そこで京都に顔の広い西郷を呼び戻すことになり、3年ぶりに薩摩に戻された。いきなり西郷は「官位も人脈もない、田舎モノの殿様のこの計画は延期すべき。」と発言、周囲を大慌てさせる。

下関で合流する予定で、久光と西郷は旅立つが、下関で会えなかった。西郷が不穏な状況を察知して京にいち早くとんでいったのだ。結果的に「命令無視」であり、久光は激怒し、再び島流しになる。わずか4ヶ月しか鹿児島におられず、今度はさらに遠い沖永良部島に流された。

南国の湿気と、蚊の大群が襲う牢屋に閉じ込められた西郷は、みるみる衰弱していった。しかし表情は落ち着いていて、悟りを開いた僧侶のようだった。「ただまっすぐに自分の信念を貫けばよい。」と。

再び戻されたときは自分の足で歩くこともできなかったという。

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西郷さんのフルネームは?

西郷隆永が本名、西郷隆盛は父の名だった。

明治になって名前を調べたが、みんなが「西郷どん」とか呼んでいたので、わからなかった。西郷は「西郷隆盛、それでよか」と答えたという。

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西郷は、戦のときに前線に飛び出してしまって、大久保利通あてに詫びの手紙を書いている。

そんな血気盛んな西郷が江戸城無血開城をやり遂げたのは?

江戸に迫った新政府軍。前線は今か今かと号令を待っていた。

新政府軍に勝海舟が尋ねてきた。会談の場は一触即発の状態。

なんと西郷は遅刻してきて、縁側からあがり、のんびりした挨拶で一気に場が和んだ。

西郷は勝が提案した和平案に合意し、総攻撃中止を約束。

しかし解決しなければならない問題は山積みだった。将兵は今か今かと待っていたため、納得いかずいきり立っていた。天皇の承諾があればいいが、今からとりつけるのは大きな困難が予想された。

さらに、イギリス公使のパークから「われわれが軍を出して横浜の治安維持にあたらなければならあない」と不満をもらしていた。

西郷はこの報告を聞き、すぐさま京都に戻り、公家達に説明。喧々囂々の議論になるが、西郷はイギリス軍が攻めてくるかも知れないというハッタリをかませて、総攻撃を主張する人たちを黙らせた。

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そんな西郷が江戸城に入ったときのこと。西郷はひとりはぐれてしまった。捜すと座敷でおおいびきで寝ていた。

「田舎もんで珍しく見ていたら寝てしまった。」と笑ったという。

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エピソードはほかにもあり、落とした握り飯を平然と食べて周囲を驚かしたという。

戊辰戦争、最後は鎮圧に奔走した。山形県荘内藩は新政府軍と激しく戦った。そんな荘内に西郷のゆかりの品々が残されている。沖永良部島の品々。扇。書物。などなど。

その理由は、荘内藩への寛大な措置。敗者にも心を配るところが荘内の人々の心に残ったからだ。