ロシア国立軍事文書館。日本人が残したソ連のスターリンへの感謝状が残されている。これを作ったのは抑留された日本人だ。ソ連各地の収容所に送られて、75万の抑留者が数えられて厳しい寒さと重労働で5万5千人が命を落とした。

その中で、語られてこなかった日本人同士の対立があった。

ソ連は徹底した思想教育を施し、抑留者は望郷の念で、友達を売ってでも帰りたいという気持ち。「生き切ること」のみが目標だった。巨大な権力を前に人々はどのように生きようとしたのか。

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河辺三男さん88歳。「兵舎の裏には遺体が高く積んであった。燃やすときが大変で、凍り付いていて、私達は’氷葬’と呼んでいた。かわいそうで」と涙ながらに語る。

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ソ連が参戦し、関東軍は戦闘をすることもほとんどなく、兵士は収容所に送られる。特にシベリアは資源が眠っていた。ソ連は疲弊した経済をシベリア開発で何とか持ち上げようとする。

元伍長の細川さん、「真夜中にドドーンと音がする。すると’夜間作業’だという。」

証言「噛む力が残っていなくて死んだ人がいると。残ったものを我先に食べた。」

証言「寒さでおかしくなり’泳いで帰る’という人もいた。」

戦争が終わったが、兵士の階級によって食事の差が歴然とつけられて、寝る場所も寒い一番下は二等兵。

証言「作業で外に出たまま死んでしまい、粉雪が降りかかった。」

飢えや病は下士官に多く出た。そんな中、下士官の不満は上官に向かった。

証言「兵隊から見た天井人だった上等兵が、ただの兵隊と喧嘩した。」

高まる階級制度の反発にソ連も興味を示していた。

ソ連発行の「日本新聞」には階級制度撤廃の文字が出るようになった。

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ソ連のこうした動きが、兵士達に具体的な動きになって現れた。

二等兵達は「階級制度撤廃」を叫んだ。将校の持っていた私物に二等兵達が噛み付いた。糾弾を受けた将校は、顔が真っ青になり倒れたという。

河辺さんが将校に対して反感を抱いたのは、赤ん坊を抱えた母親が、乳を欲しがるわが子を、「将校がうるさい」ということで、その手で首を絞めて殺害したのを見たからだという。

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戦勝国の対日理事会でアメリカはソ連を批判した。捕虜を速やかに帰還するというポツダム宣言に違反しているとキャンペーンをはった。

ソ連はこれを受けて、抑留者の帰還を計画するが、抑留者は「民主化」したものから帰国させるとした。

ソ連は日本への影響力を、この「民主化」した帰国者によって大きくしようと考えていた。

アクチブという組織がつくられて、政治講習会が開かれて社会主義革命の勉強会が開かれた。

伍長の細川さんは「面白い、実に面白かった。なるほどなあと当時は思った。」という。

「反ファシスト委員会」というのが各地で作られていると当局の指導があり、無理やり作らされたという。日本人自ら立ち上げた組織という名目で。日本人が委員会を運営し、日本人同士が競ってこの委員会に参加していった。

証言「勉強しないものは、日本に返さない。ということだった。」

小池さんは当初は反対していたが、赤旗の歌を歌わないと帰れないといわれ、唯物論などを聞くうちに賛成していったという。

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ソ連当局はさらに批判的な抑留者を見張るために、諜報組織が組成された。

聞かれるのは政策面のことなど、隣の人のことを隣の人に聞くという内容で

二言目には「帰還させる」と持ちかける。抑留者が最も恐れたのは「戦犯」と

して裁かれること。山本さんはソ連の通信を傍受していたことから、膨大な

調書を提示されたという。元少佐の山本さんは、その証言は元部下達が

全て話したことだとわかり、覚悟したという。

山本さんが投獄された頃、その部下達は帰還が決まった。

抑留者達が日本への帰還を果たすための最後の関門がナホトカ港だった。

ここで些細なことでも反動とされれば、送り返された。

証言「いったん’反動’のレッテルを貼られると、しゃべったら同じとみなされるため、誰も話しかけなくなる。」

いつ誰が、裏切るかわからない状態で、つるし上げもあった。

渋谷さん88歳、「いつの間にか反共産主義者としてつるし上げられた。」

比留間さん88歳、「天皇ヒロヒトの顔をしている。心を入れ替えなさいといわれた。」

黒田さん89歳「今でもぞっとする。いつ反動分子といわれるかわからなかった。」

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抑留者の一人が、新聞に書き付けた文書には、日本人同士が裏切り、探り合いをする状況を嘆いたものがある。日本人同士の対立はエスカレートしていき、ついにはつるし上げが恒常的に行われ、自殺者も出るようになり、ソ連も懸念を抱くようになる。

荻原さん91歳「黙ってみているだけじゃだめで’同士じゃない’といわれる。諦めの境地で’勘弁してくれ’と思いながらつるし上げに加わった。」

高木さん「耳元で’堪忍してくれ’と言われた。いいよ!と答えた。」

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抑留者が残したスターリンを称えるメッセージ。

天皇からスターリンに替わった大きな変動。

抑留者達がようやく帰還を果たしても、新たな苦難が待ち受けていた。

帰国後赤旗を掲げてデモする人たちもいた。その一方で新たな生活基盤を築く人々もいた。河辺さんは兄達が亡くなったので、猟師を継ぐことにしたが、「共産党には貸せない」など、白い目で見られたという。

シベリア帰りということで職に就けなかったゆつどうさんは、職を紹介するといわれたが、組合員のスパイになることを求められたという。

藤本さんは、戦争に加担したことの恥じらいを今も感じているという。

高木信行さんは最後の引き揚げで帰国。高木さん「しゃべるのが怖かった。日本に帰ってまで仲間はずれにされるのが嫌だった。あいつは’アカかぶれ’といわれるのも嫌やった。右いけばつつかれ、左いけばつつかれる。ようい生き残ったと思うよ。」

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差別と偏見に耐えながら、生き延びてきた抑留者達。

今も向き合う重い記憶。戦争と国家に翻弄され、自らの生き方を問われ続けた歳月だ。