今から410年前、関が原の戦いがあった。徳川家康vs.石田三成。勝負の行方が違っていたら歴史は変わっていた。石田三成の旗印は、ひとりはみんなのために、みんなはひとりのためにとい「大一大吉大万」だった。生真面目な政治家武将が一途な戦いに挑んだ、その戦いとは。
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関が原の戦いは、ほぼ半日で終了。敗れた石田三成関連書類はほとんど徳川によって廃棄された。
しかし今、近江では、石田三成ブームである。
近江で育ち、36歳のときに豊臣秀吉に佐和山城を預けられた。
佐和山城は、頂上の本丸を中心に東西2kmにわたり、竪堀などで防御していたことが最近の発掘でわかってきた。ふもとの内堀も大きく、東側には城下町を整備した。
三成に過ぎたるものがふたつあり、嶋の左近と、佐和山の城
とうたわれたほどだ。嶋左近とは「鬼左近」と評される猛将だ。2年前三成の手紙が発見され、年貢の収納なども嶋左近に任せていると書かれてあった。政治も嶋左近が補佐していたようだ。
百間橋、松原湖にかけた橋で交通、流通に役立ち経済発展に欠かせなかった。
佐和山から北の長浜は、三成の生まれ故郷。ここに三成が出した「9か条の掟」がある。農民から規定以上に年貢を取ってはならないなどと、農民を利用するだけではなく、農民の権利を認め、それを文書化していた。
農民にとっても安心できることだったという。三成の国づくりが今も賞賛されている。
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主君・秀吉を守ることにおいても三成の逸話。
季節はずれの「桃」が献上された際に、お腹を壊すからと持って帰らせたという。献上したがわの気持ちも考えればいいのだが。
1596年、大坂城で政権の重要な位置にいた三成。
1598年に秀吉が死去。秀吉は「秀頼を頼む」と言い残して世を去った。
有力大名に後見人を頼むという遺言だったが、家康はこれに従わずに派閥を作って拡大する。三成は5奉行を解雇されて蟄居を命じられる。
三成は大谷吉継を呼んで家康打倒の計画を話すが、大谷からは、君には人徳が無いから表に出るな!と忠告される。三成は武将の失敗なども細かく秀吉に報告。戦場で命を張っている武将たちには三成は目の上のたんこぶだった。
三成もそれを承知しており、三成は裏方に回り、秀頼への忠節を誓う戦いであることを前面に出して、家康打倒の旗を揚げた。
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家康軍はそのころ会津へと戦力を進めていた。家康は武将たちに、三成のみを敵として戦うことを宣言し、ここに家康vs.三成の構図を家康が作り上げた。武将たちは内府様に従いますと家康に従った。
戦については、家康は大ベテラン、三成は戦下手といわれていた。
関が原に、西軍は8万2千、東軍はそれより少ない。しかし三成はある不安を抱えていた。
それは有力武将たちの動きである。毛利輝元は大坂城に篭ったまま。さらに小早川が寝返るのではないかと噂されていた。実はこれも家康の周到な作戦。手紙攻撃で、自分につけば領土を与えるといった内容のものを184通も武将に出していた。
一方三成は、増田にあてた文書で、小早川が敵と内通しているとか、不安を隠せないでいた。
西軍は総大将の毛利輝元不在のまま戦いに入ることになり、石田三成が指揮をとることになった。
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午前8時、戦いの火蓋が切って落とされた。序盤戦は東西互角。家康包囲網が迫り、三成は総攻撃の狼煙を上げるが、どの軍勢も動かず、狼煙は無視された。一方の家康は、小早川に威嚇攻撃し、この脅しが効いて、小早川軍1万5千は西軍への攻撃を始める。さらに前にいた4人の武将も寝返る。
三成は、これを打開しようとするがついてくる武将はおらず、宇喜田軍も大谷軍も壊滅、三成も午後2時には退却した。
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古橋の集落に今も残る洞窟。三成はここに匿われていた。
しかし匿ったものも捕らえられて一家が処分されるというお触れがでて、三成は自ら自首。斬首されて首は京都三条河原に晒された。
徳川は、その後約束の領地を与えるようなことはせずに、いいようにあしらわれた。江戸時代、三成は奸臣として扱われてきたが、近江では三成先祖の墓まで破壊されたが、地元の人たちが密かに墓の破片を集めて神社に供養した。
古橋の集落は「三成を差し出した」というレッテルが貼られたが、今でも大切に三成の遺品を守り伝えている。
佐和山城跡にも、石田地蔵がある。江戸時代は何度も徳川政権に破壊されたが、そのたびに再建してきた。
石田三成を名称と崇める気風は今も脈々と息づいている。