東大阪の朝鮮人学校。多くの在日の子供たちが学ぶ。

さかのぼると米ソ冷戦による在日コリアンの民族運動を警戒した時代があった。GHQの政策を含めて在日コリアンに対する政策の軌跡を辿る。

今夜取り上げるのは1945年敗戦から日本国籍喪失を経て、1952年のサンフランシスコ講和条約までを描く。

極めて今日的でもあり、普遍的な問題でもある。

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1945年、朝鮮独立。エジプトに集まった戦勝3カ国によって、朝鮮が奴隷状態から解放されたと告知された。

朝鮮より連行された人たちは下関などの港町に集まって帰国の時を待って暮らし始めた。当時帰国に当たっては財産の没収があり、帰国したが知人も亡くなり戻るしかなくなった人たちもいた。

日本に留まることしかできない人たちは朝連を組織し、民族教育を推進した。GHQによる民主化推進により共産主義を抱える天海心などがリーダーとなっていった。必要な場合は朝鮮人を敵国民として扱ってよいなどとされながらも日本国籍を許可していた。当時の政府は皇民化などの政策に対する反発を恐れた。

朝鮮人の参政権は停止された。清瀬一郎という法学者の意見が参政権中止に大きな力になった。清瀬は朝鮮人が力を合わせれば10人以上の当選者が出るだろうと予測し、天皇制の廃止に結びつきかねないと懸念した意見を出した。

天皇の地位、位置が確定しない状態でのこの意見が重用された、

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1945年以降、朝鮮人は全国に500を超える民族教育するための学校を作っていった。母国語を知らない子供たちも多くなり、カタカナで母国語を勉強していった。地理の教科書を編纂した人は「戦争中はいじめられてあまり学校に行かない子供たちがいた。」と語る。映像は当時の朝鮮人の様子になる。

1946年白頭学院という学校で勉強した女の子の様子も映像に映っていて、その女の子がまだ存命だった。

1946年11月日本国憲法が発布され、天皇は日本国の象徴とされた。

当初GHQは外国人の「法の平等」と「人権保障」を掲げていたが、この条文は削除され、日本国民が法の下で平等であり、人権も保障されるということになった。

マッカーサーは第1条と第9条に力を置き、そのほかは譲歩したと思われると語るのはアメリカの研究者。

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こうして外国人登録証明書により朝鮮人は外国人として管理されることになった。文部省通達によって、朝鮮人も日本語の教育を受けなければ成らないとされて、正式な教育は日本の学校だけとされた。

実際に当時朝鮮人学校を運営していた人は「いつつぶされるかと戦々恐々としていた。」と語る。学校存続を求める朝鮮人学校存続に嘆願書はGHQに多く届いた。GHQもコリアン社会は共産主義者よりも多いということに危機を持ち、その対応のために調査していた。

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その頃、朝鮮半島における米ソの綱引きが激しくなり、チェジュ島では4.3事件が発生し、民族運動が盛り上がった。GHQのアメリカ第8軍団司令官アイケルバーガーは在日コリアンを民族運動を起こす危険性があると危険視した。

そんな中、「阪神教育闘争」が発生した。一時は実力で閉鎖を撤回するまでになった。当時の様子を梁さんは「また日本の植民地になるのかと思った。」と語る。

アイケルバーガーは早速、知事を集めて緊急会議を開催。神戸で行われた会議の報告書では射殺することも可とされた。大阪府庁に集まった朝鮮人のデモに警官が発砲。金太一が弾に当たって死亡。参加者は厳しい処分を受けた。

そのデモに加わった人がまだ存命で当時の様子を証言する。

占領政策の重大な課題とされた教育問題は、1948年、朝鮮人側の要望と文部省が会談し、その記録が残っている。当時の森戸文部大臣との調整で課外授業として朝鮮語の勉強が可能となった。

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アジアの冷戦は朝鮮半島の分断を生んだ。1949年中華人民共和国ができてソビエトと同盟を組んだ。スターリンは日本共産党の穏健路線を非難した。ソビエトも核を保有するに至り、アメリカは共産主義を食い止める最前線として日本を位置づけていく。

このことが在日朝鮮人にも影響を与えていく。マッカーサーは在日コリアンの対策を見直しする。「危険な摩擦」を起こすものとされ、外国人なみの待遇を見直すことになる。

外務省管理局長の倭島は、「日本から追い出す」願望があり、劣等民族と見下す風潮があると分析されたアメリカ側と協議する。「共産主義者」と同様の危険性があると報告。吉田首相は在日コリアンの国外追放をもくろんだが、マッカーサーはそれを認めなかった。アメリカは在日コリアンが帰国して共産主義者が朝鮮半島で増加するのを懸念したからである。

1949年9月、吉田内閣は「朝連解放」「台東会館閉鎖」などを次々と実施し、反対者は逮捕した。朝鮮人学校も同様に閉鎖に追い込まれていった。

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金さんは閉鎖により日本の小学校に編入した。初めて飛び込んだ日本人の学校。金さんは固まったままで、どうすることもできなかったという。

そして朝鮮戦争が勃発。祖国の朝鮮は2つに分断された。在日コリアンも分断。日本には警察予備隊が組織されて再軍備が可能になった。

サンフランシスコ講和条約、さらに1951年日米安保条約で日本はアメリカ陣営に入った。

在日コリアンは、日本国籍を喪失し、戦後保障も受けられなくなった。

日本人にとって在日コリアンは日本人とはなにもかということを問いかける存在だと、和光大学のロバート教授は語る。

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朝鮮人学校で今日演じられる劇は、当時の様子を伝えるものだった。

在日コリアンは国籍を超えて多様な文化をいかに築いていくのかを日本人に問いかけている。