ご存知「ゲゲゲの女房」の水木しげるさんと妻の布絵さんの話。再放送だが見逃したので視聴。

88歳の今も現役で漫画を描き、取材旅行にも出かける水木さん。奇人とも言われた水木さんを支えた布絵さん。

鳥取県境港市。鬼太郎に見守られて漫画を描く水木さんの像もある。

「妖怪の町」として年間100万人も訪れるという。

作家の戸井十月さんは、貸本漫画の頃からの水木さんの漫画のファンだった。ここ2年以上水木さんを取材。

東京都調布市に暮らして50年がたつ。

仕事場では、スタッフも含めた「お茶の時間」を欠かしたことがない。

カメラを向けると必ずヒトを食った表情を見せる。

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以下は戸井さんの取材に答えつつの番組構成。

大正生まれの88歳。兄の宗平さんの次に次男として生まれ、学校の勉強は好きでなく、いつも遅刻、学校に早く行くなんてことはありえなかった。「偉い人の真似していくのは苦手、子供の頃からわが道をいっていた。絵は子供の頃からうまかった。自由自在にいろんなものを描いていた。絵ばっかり描いている子供だった。」

当時の新聞に「天才少年現る」と書かれたこともあった。

絵の途に進みたかったが戦争が迫っていた。

ラバウルで地獄のような体験をする。小隊でたったひとり生き残った。

水木「運命という感じ。生きたいという気持ちはみんなある。」

必死の思いで連隊に戻ったら、連合軍の銃撃で破片が左腕に無数に当たって左腕を切断。麻酔もかけずにである。「痛いと気を失ったら’死’ですよ。」

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復員した後、魚屋の行商などしたあとに、紙芝居の作家になり、貸本の作家へと転進する。

38のときに安来の布絵さんと見合い。すぐに昭和36年に結婚し、想像を絶する貧乏暮らしが始まる。

貧乏暮らしの中でも布絵さんは「迫力があった。」と当時の水木さんを語る。「コテンコテンにけなされても片腕1本でひたむきに漫画を描く姿、意気込みに迫力があった。」と語る。

布絵さんも時々は手伝いもした。ベタ塗りや、消しゴムで線を消したり。

相性がいいといえばそうかも知れない。「大人物」だなあと思ったことが暮らしていけたことかも。しかし暮らし向きは良くならずに、出版社にもけなされて悔しい思いはあったと布絵さん。

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その頃、二人で作った軍艦は今も現存している。オカネが無くても二人で一緒に楽しんだという。

水木さん43歳のときに転機が訪れる。貸本から漫画雑誌の時代になったからだ。依頼が殺到し、水木さんは「生きた心地がしなかった。」という。「二日連続して徹夜が出来なかったから生き残れた。」「間に合わせるだけでいっぱいいっぱいで、タネ無くした!というのは漫画家としてはダメなんで必死で描いた。」

50歳でピークを迎えたが「金持ちになったけどあまり幸せじゃない。幸せには限度があって神様が決めてる。」

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岩手県遠野市、取材のために訪れた夫妻。「遠野物語」はまさに水木さんのためのような題材。

死んだらどうなるの?という質問に水木さんは「’無’ですよ。」と答える。

「死ねば違う世界があるのかも知れないけど。死の話はイコール’無’ですよ。」

取材の日も「お茶の時間」がきた。オペラに行こう!と誘う布絵さんに、ちょっと戸惑う表情。

88歳の今も仕事を続ける水木さん。

人を煙にまくひょうきんな姿の裏で、努力している姿と生真面目な姿があった。

水木さん「もっと誉められたいね。耳の横に来て’良く出来たね。傑作だね’と言われたい。」

でも妻の布絵さんからは「大芸術家だね。」といわれているらしい。

布絵さん「今思い出そうとしても’悲惨な思い’は無い。懐かしいくらいの思える。結婚して以来、夫に対する想いが揺らいだことは無い。」

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境港に沈む夕陽が海を照らし、鴨が2羽浮かぶ映像でおしまい。

以上 「布絵」さんは「布枝」さんが正しいです。