愛の戦場?・・・なにかどうか。大奥は正室や側室、その子供たちが暮らす場所。およそ1000人の女性が働く職場でもあり、’出世の花道’を競った場所でもある。超一流の誇り、ライバルに差をつける方法は。
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奥でのことは何事であろうと外に漏らしてはならない!というのが誓詞の大奥の様子はほとんど知られていないが、ハイクラスの職場として街の娘たちの憧れであった。
2万平方メートルもある広い大奥。奉公入りはまずは「大奥誓詞」を誓うことから始まり、まずは「御末」という職種で、籠を担ぐ役目からスタートする。役職種類は21にも分かれて、給与も役職が上がるほど高くなる。
御仲居、御代参などの役目がその次。ただし下級武士は御目見までで、それ以上は上級武士の娘のみがなれた。花嫁修業として入る人もいた。
さて上級武士の娘は、髷の結い方もゆるやかで、根結い垂髪にしやすいという利点もあった。
呉服の間は将軍や御代所の衣服を扱う。御次は道具を扱い、歌舞音曲にも優れていた。出世の裏技は殿様の目に留まることが一番だったが、猫などのペット戦略で上にあがることもあった。1に引き、2に運、3に器量といわれた。
御年寄ともなれば、将軍も一目置く存在の最高峰だ。
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大奥の怪談・・・同じ部屋の上司にいじめられた娘が井戸に身を投げた。恨みからかその後、身投げが相次ぎ、井戸には蓋をして重石をすることが決められた。
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桂川てや、1840年頃「御中籠」になったのが13歳のころ。奥女中の鏡といわれるほど気立てが良かった。広大院にも可愛がられ、花町という後見人からも愛されて、順風満帆だった。
10台半ばのてやは実家の母に大奥を退職して実家に帰らせてくれと手紙を書いていた。てやの実家は医師だった。父は病気がちで兄が跡を継いだがまだ若く、家族のためにてやは大奥に働きに出たのである。
てやの願いはしかし、火事に見舞われ、広大院を捜し、ようやく捜しあてるが、花町の行方がわからないことから再び燃え盛る大奥に捜しに戻る。焼け死ぬのを覚悟して飛び込んでいったてやは、結局遺体となってみつかった。恵光院殿という戒名を将軍家からもらった「てや」であるが実家に帰ることはできなかった。
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大奥では恋愛はご法度なのか?
大奥の女性同士の恋愛もあったことが手紙などから伺えるが、職場としては女性にやさしく優遇されていた。
篤姫にも登場した御年寄の「瀧山」は、大奥廃止前に退職した。
16歳で大奥に入り、贅沢に溺れず仕事に励み、徳川家定の年寄となる。30年かけてたどり着き、14代将軍にも引き続きつかわれて、御年寄となった。
将軍家茂の実母は朝から酒を飲む酒乱だった。経費節減の折、瀧山は実母をいさめるが、対立の火種となった。瀧山の転機は和宮が来てからのこと退職を願い出た。その1年前に家茂も死去しており、慶喜の就任前に退職しようと決意し、身を引いた。和宮は留まるよう依頼するが、決意を曲げることはなかった。
瀧山が去って半年後に大奥は幕を下ろした。
瀧山は現在の埼玉県川口市に伝を頼ったが、その権力の大きさは2百人の大行列で、位の高い人のみが乗る籠に乗っていたという。
瀧山は「みね」を養女として育て、「瀧山家」を興し、現在も「みね」から数えて5代目の当主が瀧山姓を引き継いでいる。
明治9年、71歳で死去したが、家族と暮らす晩年だった。
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篤姫と和宮はそれぞれ江戸の町に居を構えたが、しだいに女中たちの数を減らされていった。暇をだされた女中たちは新しい人生を踏み出していった。
大奥での暮らしをそのままにしたため、世間からは好奇の目で見られた。そんな女中たちの聞き取り調査から、ようやく大奥の内実が表に出たのだった。
江戸城大奥跡は現在の皇居東御苑あたり。今はしのぶものも無い。
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