平安時代、魔物や怨霊と戦ったのが陰陽師。果たして本当にそんなことが出来たのか?陰陽師といえば安倍晴明。蛙を消したいう逸話は有名な話だが・・・。
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貴族たちは不安になっても、家族の揉め事の、とにかく陰陽師に頼った。戦国時代の武将たちも占いに頼ったという。
平安時代の京、公家の役人たちの仕事場に蛇が現れた。こういった場合も平安貴族は陰陽師を頼った。日常とは異なる出来事が起きると占い師に頼った。「見えない災い」として恐れ、日常の平安を脅かすいざこざも「見えない災い」だとされた。
では陰陽師は何を頼りに占ったかというと、星の動き。星や生活に異変が起きると、中国の天文書などと照らし合わせて推し量った。
陰陽師は陰陽寮という国家公務員、4つの部署に分かれて、星の観察を欠かさずしていた。
安倍晴明は木星の異変を見つけた。おとめ座付近にあった木星は少しずつ、おうし座に近づいた。これを肉眼で見たわけだ。晴明は天変地異の前触れだとした。天皇はすぐさま祈祷を命じて、4箇所でお払いを実施。これが奏功したのかどうかわからないが、災いは起きなかった。
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また暦代わりになっていたのも占い。入浴すらその日柄が決まっていた。物忌になればずっと家の中で閉じこもっていた。
一条上皇が亡くなったときは、藤原公信は物忌みを理由に役目を逃れた。
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星が動くことは運命も動くと思われていた。昔話の中で方角が大事だったのは「桃太郎」、鬼の角は牛で、パンツは虎。丑寅の方角に鬼門があり、犬・猿・雉はその反対の方角にある。
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百鬼夜行、平安時代は人に及ぼす災いは鬼が引き起こすと考えられていた。京都の陰陽師紀行。まずは京都御所。鬼門には「晴明神社」があり、マークは五方星☆は魔よけのマークなのだ。
「厄除桃」、桃には邪気を払う力があるといわれていた。自分の禍々しきものを払うお札もある。
次は御所の西側。こちらは疫病がやってくる方向といわれ、今でも妖怪ストリートといわれる通りがあり、それを抜けたところに「大将軍八神社」がある。大将軍とは星の神様のこと。
神社には八十体の神様が奉納されている。木像の神様が寄進されたのだ。
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平安時代のミステリースポット
①一条戻り橋
②羅城門
③鉄輪の井戸・・・別れたい人に飲ませると別れられる。
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御所の話に戻す。神泉苑。その中にある歳徳神を祀る恵方舎。その歳の良い方角を拝むのが、初詣の始まりといわれている。
奈良県奈良市の陰陽町。南都陰陽師が暦を作っていた。
草取りに良い日、井戸掘りに良い日、出かけるときに良い方角なども記載されている。
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戦国時代は、武将たちも陰陽師に頼ったことが絵図にも描かれている。あの信長ですら、陰陽師に頼った。
「足利学校」では儒学、兵学などを学ぶが、占い学、天文学も学んだ。ここで学んだ人たちは武将のもとで「軍師」として活躍した。
軍師の占いが家臣たちの士気にも影響したという。大友の大敗はその影響だという。
逆に上手に利用したのが毛利元就。軍扇には真っ赤な太陽が表、青い月が裏。厳島の宮尾城が落城の危機にあったとき、敵も味方も「絶命日」で戦はしないとされた日に、元就は礼の軍扇で太陽のほうを向けたことで「絶命日」から「吉日」になったとして戦をしかけて大勝利した。
さらには豊臣秀吉も、本能寺の変のあと、光秀を倒すことにしたが、陰陽師の占いは「出たら二度と戻れない」というものだったが秀吉は、それを「勝つのでここには2度と戻らない」という意味だと逆手にとって、出発して、天下を引き寄せた。
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現代の生活に陰陽師の影響は?
・節分の豆まき
・御目出度いときの紅白まんじゅう
・大晦日の大掃除
なども陰陽師の影響が残るもの。
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京都市下京区円光寺。ここに天文観測用器具が残されている。
明治になってようやく陰陽師の天体観測は終わりを告げた。
祇園祭りの山鉾は、その天井板に28の星座が描かれている。