今夜は、カンブリア宮殿ではなくて、こちらを視聴。なんたってノーベル章物理学賞受賞者で発言が愉快で魅力があるから。

今年70歳、恩師の「議論は自由に、研究室では平等だ」の教えに導かれた。

その運命の遺伝子を探る。

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西田敏行さんも「かわいいと思った。」と吐露。

益川さん「天邪鬼なんですよ。」

ノーベル賞のメダルを実際に手にする西田さん感激する。

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ノーベル賞を受賞した論文が示される。さて恩師だが坂田昌一さんだ。

名古屋大学。41年前、益川さんはここで研究した。素粒子論の研究は1963年23歳のとき。「E研」と呼ばれる研究室の門をたたいた。その真剣な議論の様子に魅力を感じた益川青年。その中心に背の低い男性がいた。その人こそ坂田昌一教授だった。

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1940年わんぱく少年で勉強嫌いだった益川さん。父親が科学好きで銭湯の帰りに益川少年にクイズ方式で様々な現象を教えたという。学校では理科や算数にだけは興味を示し成績は良かった。

ある日、科学雑誌の坂田昌一さんの論文に惹かれた。運命の出会いだった。

1911年、電子と原子核で分子ができていて、さらに原子核には陽子と中性子からできていて、さらに湯川秀樹博士が中間子があることを突き止めノーベル賞を受賞。

そのまたさらに坂田昌一教授が、陽子と中性子以外の物質を突き止めた。

益川さんの父は店を継いでくれるよう望んだため大学進学には反対だった。

家族会議の末に、地元の1校だけ受験することが許可されて、益川青年は猛勉強。その甲斐あって名古屋大学に合格し、ついに坂田教授の薫陶を受けることになった。

坂田教授は「オレより背の低いのが来たぞ。」と喜んだという。

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益川さん「宿題をやらなくて怒られたけど、それでやるような子供じゃなかった。」

坂田昌一さんは1911年東京生まれ。1930年京都大学に入り、湯川秀樹や朝永振一郎が一緒だった。

名古屋大学に30代で教授として招聘された。

坂田さんは自由に議論できる環境作りに心を配ったという。

益川さんが感心したのは、ノートを忘れて戻ったときに、益川さんが泥靴で入って汚した床をモップで拭いていたという。益川さんを叱って萎縮させるのではなく、気持ちよくいさせるためだと益川さんは考えて感激した。

その自由の中で、研究に励むが、恩師の坂田さんも恩師がいた。岡山県の仁科会館、仁科芳雄博士がその人。仁科さんも理化学研究所に籍を置き、坂田教授も学んだ。そこは自由な雰囲気だったという。

もうひとつは仁科さんの「社会に対する責任」だ。サイクロトロンの研究を軍に委任されたが研究は中途で終わった。仁科さんは原爆投下の広島を視察して、その化学兵器の悲惨さを目の当たりにし、「戦争を目的とする化学兵器が絶対に作ってはならない。」と考えて、湯川さん朝永さんらに引き継がれ、坂田さんそして益川さんに引き継がれる。

坂田さんは血液のガンに冒され病床に付し、1970年10月、59歳で死去する。早すぎる死だった。

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益川さん「坂田先生の中では研究と平和活動は一緒で、’二足のわらじを履かないヤツは男じゃない’と言っていた。」

ここで1969年のラジオ放送に出演されたときの録音が流される。ほんとにやさしい声だ。

益川さん「僕が乱暴な議論をして、口を利かない!なんてやっていた。」

黒崎アナ「結婚にあたって宣誓書をお書きになったとか。」

と、ここでスタジオにその宣誓書が登場。

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1970年名古屋大学を離れて、京都大学の助手となった益川さん。

その自由なE研の雰囲気を持ち込んだ。その2年後、小林誠さんが入ってくる。

この二人が素粒子の難問に挑むことになる。坂田模型から発展し、1964年クォーク理論が出てきて、ビッグバンで、クォークと反クォークが出来たが、同じ量ではなく’CP対称性の破れ’によってクォークにが多くなったことが証明されなければならなかった。

いくら議論を重ねても、たどり着かない議論。益川さんの拠り所は「坂田先生ならどう考えるだろう?」だった。そして煮詰まって風呂に入っていたとき、閃いた「6次元にしたらいける!」小林さんも否定せずにこれを証明しようとした。そしてついに1973年益川・小林理論が発表された。

1995年までについに実験でも6つめのクォークであるトップクォークも見つけられて、35年目にして論文に対してノーベル賞を受賞することになった。

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益川さん「クォークモデルの先鞭をつけたのが坂田モデルであり、坂田先生もノーベル賞がありえたが、弟子ともがだらしなかった。」

ここで坂田先生の息子さん、物理学者の坂田文彦さんが登場。「父のところに多くの研究者が来ていて議論を交わしていたので、それを見聞きしていてこの道に進むのは必然だった。」

スタジオに、坂田昌一先生が病床で書いた色紙が登場。

益川さん「先生はカリスマだった。僕は漫才師的だけど。」

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名古屋大学のE研、今も学生たちが熱い議論を戦わせている。

学生「議論している中でわかることもあるし、整理できることもある。」

今も生きている「議論は自由に、研究室では平等だ」