雪山越えの冒険野郎。船を漕ぎ出し世界に目を向ける男。吉田松陰がその人。20代は無茶の連続で5回も牢屋に入れられた。自ら「二十一回猛士」と名乗っていたくらいだ。
真冬の東北3000kmの旅。アメリカ密航計画。そして師弟のケンカ、わずか30歳で処刑されるまでの、無茶な人生とは?
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越後山脈の雪山越え。松陰22歳のときの出来事。
松陰は長州藩に生まれ9歳で漢学をそらんじた天才だった。兵学者のおじから英才教育を受けて、藩のためには私事を捨てねばならぬと教え込まれる。
20歳のときに江戸に出て兵学を学ぶが、江戸の学者の生き方に疑問を感じる。他藩からきた若者たちと議論を交わし、外国からの脅威を知り、東北に調査に出ることにする。過書(パスポートのようなもの)を藩に出してもらうよう申請するが、許可が下りずにそれを待てずに出発してしまう。
最大の難関は豪雪地帯の会津から越後への道のり。今でも危険な峠越えを敢行する。諏訪峠を5時間かけて峠まで上がり、そこで松陰は苦難を越える喜びを感じ取ったという。
越後は佐渡島で金の採掘現場を視察したが、そこで見たものは工夫の悲惨な現状だった。
さらに盛岡藩では軍馬を生産していたが、農民たちが育てた馬は2歳で安く藩に引き取られてしまうという。
松陰は目的地である外国船が通る津軽海峡に到達するが、大砲は旧式で、藩は外国船の通過を見てみぬふりをしていた。
松陰はこの旅で、現実を深く知ることになった。藩に戻って罰を受けるが、すぐに全国を歩ける過書を出してもらった。
その後も、全国を回るが実際はほとんど走って回ったという。
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金子重之助。彼は最初の弟子である。松陰24歳のときにペリーが浦賀に現れる。翌年再び黒船が来航し、松陰は自分自身がアメリカに渡り、新しい技術を習得すべきだと考えた。このとき金子が松陰に一緒にアメリカに渡りたいと申し出てきた。金子は足軽であったが、松陰はその熱意にほだされて、一緒に行動をともにすることにする。
松陰と金子は、伊豆の下田に向かい、地元の船頭が漕ぐ船で黒船に向かうが、船頭がこれ以上は近づきたきないと拒否し失敗。しかし二人は諦めずに他の船頭に頼んだり、上陸した船員に口利きを頼んだりするが失敗。
策が尽きて、結局二人だけで船を漕ぎ出し、黒船に乗り込むが、密航者を乗り込ませれば幕府との交渉に影響が出ると考えたアメリカ側に拒否され失敗する。
この失敗から「二十一回猛士」と自分を名乗る。
しかし密航を企てた二人は逮捕され、藩に送り返される。牢獄に入れられて、松陰は武士用の牢獄、金子は雑居房に入れられて金子は病に犯されてしまう。松陰は断食して金子の回復を祈るが、金子は25歳の若さで息を引き取る。入獄後3ヶ月のことだった。
松陰は身分の違いでこういった理不尽がまかりとおることに心を痛める。
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松下村塾は、みなが対等に勉学に励む場所として開設。明治の偉人たちを輩出することになる。
1858年、日米修好通商条約が結ばれた。しかし不平等条約であり、松陰はこの内容に大いに不満を感じ、将軍を討って幕府を倒せという過激な意見書を藩にあがる。藩は握りつぶすが、なおも松陰は老中を暗殺する計画まであげる。藩は捕らえて投獄する。
弟子の高杉晋作や久坂玄端などは、松陰をなだめる血判状を送るが、逆に松陰は絶縁状を送る。
松陰にとっては時勢を待っていては日が暮れると考えていた。
松陰は江戸で幕府の役人から取り調べを受ける。刑は軽く済みそうだったが、なんと松陰は老中暗殺計画まで自ら話し始め、命を賭けて自論を展開するが、死罪となってしまい、30歳で処刑されてしまう。
・・・もし同志の中でわたしの意志を受け継いでくれるものがあれば、種が実を結ぶことになろう・・・
まだまだ幕府が絶大な力を持っていた時代だったが、弟子たちへ引き継がれて明治維新へと繋がるのである。
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山口県萩市。萩焼の茶碗が残されている。坂本龍馬の署名と、指月山の絵。萩では龍馬と久坂が交流した証だ。遺髪をもって墓所を作った17人の弟子たちによって松陰はこの地に眠る。