かつて銃弾が飛び交う現場に紛争をやめるべく乗り込んでいった人物がいた。その交渉術とは?

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交渉人、日本初の国連職員にして、国連ナンバー2の事務次長になった。

1991年から泥沼の内戦が続いたボスニアフェルツエゴビナ。

1994年4月、ゴラジュデェで明石はセルビア側の説得に乗り込んだ。

セルビア人指導者カラジッチ、武装勢力の司令官ムラジッチ、そしてミロシェビッチ大統領との4人での交渉を行った。NATO軍によるセルビア人に対する攻撃が開始される10分前に交渉が成立した。この交渉が一番印象に残っているという。NATO側はメンツをつぶされて大いに怒ったという。

カラジッチが最も手ごわい交渉相手で、政治家であり詩人で、三島由紀夫を愛読、子供のようなところもあったという。

ここで名言が登場

女性がNOと言ったら、多分

女性が多分と言ったら、YES

女性がYESと言ったら、女性ではない。

外交官がYESと言ったら、多分

外交官が多分と言ったら、NO

外交官がNOと言ったら、外交官ではない。

ミスター明石はNOといわなかったとカラジッチに言われたという。

でも女性を口説くのは不得意だという。

明石「悪い評判の人のところに交渉にいったからといって、交渉に行った人も悪いといわれるのは困る。」

明石「似ているからこそ気になる。ボスニアは民族同士の結婚も進んでいた。」

明石「サラエボから外のほうに国連軍が緩衝地帯を設けて交渉するという話が漏れて失敗したのがくいが残る。自分の直感に従えば良かった。」

スレブレニツァの虐殺。警備のオランダ軍は200人、ボスニア軍は8000人近く。一気に入り込まれて、8000人のムスリムが虐殺された。空爆をやめるようにNATOに交渉していた中で起きた。国連にとっては「できないこともたくさんある」という教訓になった。

14世紀末にコソボの戦いがあってセルビア人はトルコ軍に敗れたが、このときのことを500年たっても忘れていない。日本人は忘れやすいが、ボスニアの人たちは忘れ無すぎる。

ミロシェビッチについては、「独裁者といわれるけれど、孤独だなあ。」という感想。「彼は頭も良かったけど、人を見る目が無かった。」と評価。彼は大量虐殺の責任を問われ国際法廷に被告人として立った。

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明石はカンボジアにもいたことがある。立ちはだかったのはポル・ポト派だった。当時抵抗勢力として活動していたポル・ポト派は、日本人2人を殺害していた。選挙実施が危ぶまれていたが、カンボジア人の手による選挙実施に向けて努力し、総選挙は無事に実施された。

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交渉術は?

明石「相手もいろんなものを被っているので、それを剥がしていく。相手が何を脅威に思い、何を求めているのか、相手の心を聞く。」

1956年12月、国際連合に復帰した日本、その場にいた明石は、日本の国際化のために働こうと意識した。

中学3年で終戦を迎え、それまでは軍国少年だった。子供ながらに「勝ち」は無いなあと思っていた。戦争には懐疑的な少年だった。

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太田「当時は日本人は蔑視されていたでしょう。」

明石「アメリカ人はみな明るくて、善意で日本を改革しようとしていた。でも僕は媚びようとは思わなかったけど。」

明石「国連で働いていると、まったくの善意というのもなくて、まったく真っ黒な悪意というのもなく、グレーに状態である。交渉は常にグレーな状態で行うもの。」

田中「忠犬ハチ公の家は明石さんの家だって本当ですか?」

明石「本当です。家に何匹かいたうちの一匹がハチ公です。」