平城遷都1300年を迎えた奈良。ルシャナ仏の手の形は?というクイズからスタート。右手で安心を、左手で願いを叶えるという。さて何故このように大きいのか?

奈良の大仏、当時世界最大級の金属の仏像。最初は別の場所、滋賀県の信楽に造られる予定だった。大プロジェクトは様々な困難があった。その秘密を解き明かす。

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東大寺、ルシャナ仏坐像。15mもの高さ。当時は大きくても3m前後だった仏像のおよそ5倍だ。

その秘密は孫悟空の西遊記にある。三蔵法師は実在の人物で、玄奘という。経典を求めて旅をするが、途中で驚くべき仏像を見たと記録にある。それはバーミヤンの岩に彫られた大仏像だった。インドでは小さな仏像がなぜバーミヤンなど近郊で大きくなったのか?

それは交易で儲けた商人が、理想的な「仏国」を作ろうとして資金をつぎ込んだからだという。弥勒仏はあの世を今の世に見せるものだった。

7世紀から8世紀、シルクロードでは大仏が次々と作られていった。バッコウクツや楽山大仏は特に有名な弥勒仏だ。さらに東に行くと奉洗寺仏は弥勒仏ではなくルシャナ仏だった。当時は「唐」の時代。唐は巨大な仏を造り国を治めているとの話が伝わったと思われる。

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鎌倉の大仏は、奈良とは異なる仏様で謎が多い。上野寛永寺の上野大仏は顔だけが残る。江戸時代の初期に造られて地震で顔だけが残った。兵庫大仏は戦争で鋳物として潰されてしまった。

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奈良、昭和26年、昭和天皇の行幸時に信楽焼きのたぬきがたくさん出迎えたのだった。なんと大仏は奈良ではなく信楽で造られていたとの証拠が出てきた。

滋賀県甲賀市信楽町に奈良時代最大の銅工場が発掘された。文献にはあったが、実際にそれが確認されたのだ。

740年頃、平安京は混乱していた。また各地で天災が続き、連日大勢の人が死んでいった。聖武天皇は心を痛め、都を移すことを決意し、恭仁京を設営。このとき大仏を作る場所として選ばれたのが信楽だった。

何故信楽の山が選ばれたのか?奈良時代のマガイ仏があるなど当時も聖なる地であったと思われる。

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建立には、まず体骨柱を立てて、さらに恭仁京と信楽間30kmの道を作った。大仏を作ることは総合的な大プロジェクトだった。甲賀寺がその大仏を納める予定だった。でも高さは4m程度だった。すると大規模な銅工場は必要でなく、甲賀寺は後に作られたと考えられる。

発掘で柱が出れば、奈良の大仏と同じような大きさのものを計画していたと証明できる。

しかし地震や日照りなどの自然災害や山火事が起きて、天皇は信楽での大仏を諦めて、奈良に戻した。

大仏を納めるのが東大寺。創建当時は今の10倍の敷地があり、塔の高さは100mもあったという。回廊の中でそびえるのが大仏殿。今のものの1.5倍あり、鮮やかな色彩で飾られていた。

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大仏造隆は大プロジェクト。家庭と仕事で悩み、大事故で死傷した。

若草山に巨大な柱を立てて、枠組みを木などで創り、造東大寺司が組織されて、各部署ごとに分担されていた。1割ほどがその庶務的な作業にあたっていた。

重労働には8合、事務方は5.6合などと食事の量も決められていた。

表面を覆う銅は、上から流す込むが、炉を上に持ち上げるのはどうしたのか?

それは「鋳境線」でわかる。大仏の周囲に土を盛って、銅を流し、さらに土を盛ってを繰り返し、最後は巨大な土饅頭のようになったと想像される。

また銅の炉が爆発し流れ出るなどの事故もあったことが予想されている。

写経のノルマがある係りのものはずっと写経を行なう。息子の死に目にも会えなかった男がいたことが記録にある。

銅の手直しに5年かかり、当初から7年で東大寺がほぼ完成し、残すは金の膜をメッキすること。この作業には5年かかった。

こうしてようやく完成した奈良の大仏は、全身まばゆい金色に輝く仏様で、今のより一回り大きく、ヒゲもあり、群青色の頭と派手派手で、台座も細かい模様が描かれて、全体に輝き今の世を良くしようと言う意欲に溢れていた。

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その後、大仏は壊れるたびに、僧侶や有力者によって補修され、今に至っている。

修二会は大仏建立からずっと続いているが、その中で建立に関わった無名の人たちも供養される。毎年、建立に関わった人たちの苦難に思いをするためだ。