ミステリアスで危険な香りの女性。清の王女様に生まれながら男装の麗人と呼ばれて戦争の中を生きた。

男装の女スパイは波乱万丈の人生だった。18歳で固い決意で髪を切り、歌手にもなった。王女は何故スパイになったのか?

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芳子17歳の写真はすまし顔の少女だった。しかしすぐに髪を切り、’男’として生きることにした。

愛新覚羅けんしが9歳で日本に渡った。ラストエンペラーの溥儀とはいとこにあたる。旅順に亡命した粛親王の娘だった。親王から清と日本の捨石になるのだといわれ、9歳で川島浪速の養女として日本に渡った。

川島家で芳子と名付けられた。小学生の頃、ジャンヌ・ダルクの本に出会い衝撃を受けて、憧れた。自分もジャンヌ・ダルクになるんだと。’いつか自分は清朝のジャンヌ・ダルクになるんだ。’という思いはずっと暖めていた。松本の女学校時代も思いは変わらなかった。しかし14歳のときに粛親王は死去し、清朝復興は果たせなかった。川島浪速も癇癪を芳子にぶつける日々。癇癪の気晴らし道具だと日記に書いてある。

そんな芳子は青年将校に恋をした。しかしやがて浪速の知るところなり、監視のもとにおかれ、青年将校は浪速に追及され「ただの一度逢っただけです。迷惑です。」と答えた。その後、芳子は髪を切り落とし男装を通すことになる。その理由は粛親王の遺志を継ぐことにあった。

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当時はモダンガールというのがおしゃれな女性の代名詞だった。髪の毛を短くすることも流行の先端だったが、眉をそばだてる人がほとんどだった。

芳子は「歌手」としてもデビューし「男装の麗人」ブームとなった。

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1931年満州事変勃発。翌年に満州国が建国され、清の溥儀が復活した。

その頃、小説として「男装の麗人」が発表され、モデル捜しが懸賞にもなって、たちまちベストセラーになった。主人公の麻里子は小説の中で大活躍する。しかし実際に芳子が大陸で何をしていたかはほとんどわかっていない。芳子は現実と小説の架空の世界が乖離していたが、世の中の人は麻里子イコール芳子だと思って、アイドル化していった。

芳子もそれをうまく利用しようとしたが、さらに満州の関東軍もこれを利用しようとした。建国に不満を持つ抵抗勢力が激しい抵抗運動をしていた。関東軍はその抵抗勢力の討伐・平定に活躍するかのごとく仕立てていった。3000の兵を指揮して勇猛な行動をとったという新聞の記事が踊ったが、実際にはそのような事実は確認されていない。

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当時土地を失った中国の農民は、日本の農民の小作として働かざるを得なくなり、日本軍が通ると中国人は土下座させられているという。この現実の報告を受けて、芳子は松本の講演会に中国服を来て登壇し、当初掲げられた満州国の理想と違うことを訴えた。

それはつまり、この時から芳子はマークされることになった。

日中戦争が始まり、もはや芳子を好意的に見る人は日本にはいなくなった。

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実際の足跡。北京で生まれ、旅順に亡命、日本の東京・松本で育ち、その後は中国各地と日本を行ったりきたり、芳子の話は現実をかなり脚色したものだが、エネルギッシュであったことは間違いないようだ。

しかし関東軍にマークされてからは身動きがとれず、北京にいた。芳子37歳、北京の自宅に篭る日々だった。ペットの猿4匹との生活だった。

昭和20年8月終戦。大陸にいた日本人は我先に帰国の途に着いたが、芳子は帰らなかった。中華民国政府は日本に協力した中国人を次々と逮捕された。芳子も漢奸として逮捕された。

獄中日記が松本に残されている。心情を吐露したもの、気弱になったときのもの、悲痛な叫びのようなもの。などなど。

芳子は日本人であることの証明を養父浪速に依頼するが、中華民国政府は、芳子を中国人として裁こうと着々と手を打っていった。中国人’金壁輝’として尋問されていった。しかし証明は間に合わず、半日足らずの裁判で結審して、死刑が命じられた。出生のときに父が中国人であれば中国人であるとみなすと裁判長は述べた。そして小説の’男装の麗人’における情報漏洩が証拠とされたのだった。

昭和23年3月25日、芳子は銃殺刑に処せられた。

「デマに生き、デマに死んでいく。これが私の一生である。」

非公開で行なわれたため、処刑「替え玉」説など、世の中をにぎわせた。

人々は今も男装の麗人の幻影を追うが、遺骨は松本に送られて、浪速の養女として埋葬されたが、今もなお帰るべき家を求めているのかも知れない。