アートディレクターというキャプと、真ん中に顔のパーツが集まった感じのマッチ棒の燃えさしのような雰囲気の男性が画面に。

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北京五輪の開会式をプロデュースしたチャン・イーモーも絶賛するのが水谷さん。

プロ野球球団のロゴマーク、ANAのポスターなど私達が目にしている商品もこの人の作品が数多い。

最近とりつかれたのが笑顔の写真。音楽プロデューサーのつんくも作品に惚れる。

水谷さんは少し変わっている。「ゴミこそ宝の山」「畑はデザインだ。」話し出すと止まらない。でもなんだか面白そうな人なのだ。

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六本木に4人のスタッフを抱える。新たな商品のデザイン。クライアントは医科大学の病院。白い紙に文字を書いていく。’病院をデザインする’仕事だ。病院がもつ暗い雰囲気を払拭して欲しいという依頼。殺風景だった壁が鮮やかな水玉に変わる。’病気が飛んでいくようだ’と評判。

またあるときは段々畑にいて興奮しながら写真を撮る。畑や大根をキレイと表現。農家の方にアンケートをとって写真を撮る。’農業を楽しみ’ことをコンセプトにした農業イベントを発案し、具体化しようとしていた。

スポンサーをつけるために懸命だった。’農業をデザインしよう’巨大かかしを考案したが世の中の不況でスポンサーは集まらず、かかしは小さくなり、畑も小さい。立ち寄ってくれた人は楽しんで帰ってくれたが、費用は水谷さんの持ち出し。

収入と支出のバランスはあまり良くない。

58歳独身。この日も仕事場で焼きソバを作った。スタッフに半ば強制的に食べさせる。

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1951年生まれ、長野の中部大学工学部を卒業し、デザインの現場に出た。32歳で独立。バブル景気の只中で、瞬く間に脚光を浴びたが、1995年に転機が訪れる。阪神淡路大震災だ。神戸への支援を訴えるポスターを友人の写真をもとに作成した。リアリティのもつ強さを感じた。

それから笑顔に嵌まった。四川省の地震被害の町にも出かけ、子供たちの無垢な笑顔を撮った。

世界中の子供の笑顔が彼の仕事になっていった。

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去年の秋、あらたなイベントを企画した。インドネシアの町。その現場は2004年スマトラ沖地震での最大の被害地。巨大な船が押し流されてきて陸にある。

インドネシアバンダチュア。イベントには町の小学生・中学生のボランティアが必要。日本から送った傘には子供たちの笑顔がプリントされている。

その傘を子供たちに持たせて、デザインする。しかし礼拝の時間が来て子供たちは帰ってしまう。郷に入りては郷に従え。ではあるがスタッフに話をし出すと止まらない。

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2009年11月9日、イベントの本番。地元赤十字に助けられながら、イベントの費用は水谷の持ち出しだった。

手作りのささやかなイベントは10分足らずで終わった。「どっかで誰かが見てくれるかも知れないし、これでいいんだ。」と水谷。だがイベントはロイター通信を通じて全世界に発信された。寄贈した傘も大活躍。

東京に戻れば費用請求の山と対峙しなければならないが、そんなことには頓着しない。

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見終わって、なんだかものすごく羨ましくなった。才能を持つ強さに憧れたからかな。