9時10分から視聴。

日記を片岡仁左衛門さんと、竹下景子さんが朗読するかたちで進む。

小沢さんが聖路加国際病院に入院したあたりから。

夫の爽さんが屋上ガーデンの様子などを撮影。

病院の内山伸医師の説明を聞く小沢夫妻。退院することになったが、小細胞ガンという症状であることを知らされる。進行が早くて飛び散る性質があるというので妻の千緒はショックを受ける。夫も心配で体調を崩した。

---------------------------------

外来通院は終わり、再び入院治療になった。

爽さんの慣れない家事を気遣う千緒さん。

間もなく小沢さん夫妻はショートメールを利用してメール交換を始める。

外の様子、四季の移り変わりを爽さんが伝え、千緒さんは病院の様子を伝えるやりとり。

再び退院するが、千緒さんは自殺の夢を見るなど、心の脅えを記す。

二人で計画した生田緑地への散歩。紅葉は盛りを過ぎたが、久しぶりの二人の外出だった。こんな日があとどれだけ味わえるんだろうと千緒さん。

----------------------------------

2月1日千緒さん64歳の誕生日。

誕生日プレゼントは爽さんの「あんたに惚れ直す。」という言葉だった。

放射線治療後収まっていたガン細胞の活動が再び活発化。

夫妻は西洋医学においてはもうこれ以上は無理と感じた。

代替医療に希をかけることにする。

夫妻は聖路加病院の内山医師に手紙を書き、土佐清水市の病院に入院することを告げる。

-----------------------------------

土佐清水市では猫をなで、神社の様子を見る。次男の冬平さんが孫を連れて訪問。孫の活発な動きに目を細める。

6月になり、ヨガをやっていてカラダが傾く感じを覚える。左手の薬指と中指が固くなったようにも感じる。

左半身が恐ろしく速いスピードで悪くなってきた。

右脳がおかしくなったのではと疑問がわき、CTの検査を受ける。

右の前頭葉に転移が発見された。急遽東京に戻り、入院手術。

6月22日、千緒さんはベッドの端にうずくまっていた。自力で左足で立てなくなった。

6月29日、聖路加に転院。ひとりで着替えなどが困難になる。脳に損傷があるとこうも動かなくなるかと思う。

-----------------------------------

7月15日、退院。部屋は千緒さんが苦労しないようにしつらえてあった。

夫の爽さんは家事に奮闘することになる。

千緒さんはトイレのお漏らしに「哀しく情けない」と嘆く。

介護する爽さんも、疲れて捨て鉢な気分にもなる。

8月15日、爽さんは千緒さんの語ることを聞き流す。距離を感じてしまう。

千緒さんも負担をかけていることに気兼ねする。

8月20日、左手左足が少しずつ動くようになってきたと喜ぶ千緒さん。爽さんの疲労・イラダチを気遣う。

-----------------------------------

11月11日、爽さんが大量の血を吐く。

11月17日、爽さんのほうが先に逝くかもしれないという不安が生まれる。

12月1日、爽さん70歳になる。爽さんは入院。

12月14日、お風呂場で倒れる千緒さん。ヘルパーさんに助けられる。

この年のクリスマスは一人で過ごす。

翌年1月、爽さんの退院が決る。喜ぶ千緒さん。

-----------------------------------

2月末から、千緒さんのカラダに発疹が出始める。かゆい。そのうち爽さんのカラダにも出始める。乾燥のせいか。二人ともガン患者であり、薬の副作用かも知れないと思う。

3月下旬、千緒さんはCT検査を受ける。肝臓に転移していて圧迫してきている。心臓と肝臓の間にも腫瘍があった。

4月上旬。首のリンパにも腫瘍が。聖路加の緩和ケアに行くことにする。

4月30日「これは入院じゃないよ、転がり込むって感じだもの。」

5月2日、病院に向う。検査すると左胸は真っ白だった。千緒さんはベッドから離れられなくなる。発疹も疥癬と判明した。免疫力が弱いと出るという。

このあたりから日記は簡単になる。

5月5日、千緒さんは「すっかり奴隷扱いしちゃったね。」と詫びる。「北見で会ったのが運の尽きね。」と。

もう力がつきかけていた。痛みが千緒さんを襲う。

5月13日、母の日、子供たちが見舞いにやってきた。いわば別れの挨拶をする。「生んでくれてありがとう。」「生まれてくれてありがとう。」

子供たちが帰った後に「これが事実上のお別れだね。」と千緒さん。

5月17日、呼吸が浅くなり、食欲も全く無くなっている。目の焦点も合わなくなり、しきりに水を飲む。

医師が来る。爽さんは通訳する。「24時間眠っていたい。」

医師は一旦戻った後、24時間睡眠はいつにしますか?と聞いてきた。

千緒さんは「プログラ・・」と語った。爽さんは北見の出会いはプログラムされていたといいたいのだろうと合点した。

爽さんは耳元で「明るいほうに進んで行きなさい」とささやく。チベット仏教のやり方だという。

「明るい光の方に行くんだよ。輝く光の方に行くんだよ。」

------------------------------------

5月23日、千緒さんの亡くなったあとの爽さんの生活。家事や遺品の整理。

自分でやれることは自分でやる。千緒さんの言葉を肝に銘じる。

7月17日、千緒さんが亡くなって2ヶ月「二本の木」をまとめる。

私が死んだら、遺灰を混ぜ混ぜにして、信州のリンゴの木にでも撒いて欲しい。候補地はいくつか息子達に言ってある。

爽さんも後を追うように世を去った。