2009年12月31日、NHK出演者控え室。絢香22歳。この日を境に歌手を無期限停止する。
ステージでは真紅のワンピースで「みんな空の下」を熱唱。
去年4月水嶋ヒロとの結婚記者会見があった。そしてそこで病気の治療に専念することを突然発表。そのときを思い出して「病気が辛いということではなく、歌を歌わなくなるということの寂しさにグッときてしまった。」と語る。
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10月絢香は青森にやってきた。体調を崩して中止になったライブを行なうためだ。野外ステージで「心配かけてごめんね。やっと来れました。」と涙ぐむ。
♪I blieve:目の前にある自分の進むべき道はどれか? I blieve 信じることで全てが始まる気がするの。~
何よりも幸せな時間がライブだという。「その場の空気だったり、お客さんの笑顔だったり、拍手だったり、いろんなものが混じった空気。しかも毎回違う。力を感じられる場所。ライブのためにリリースするようなもの。そのくらい素晴らしいこと。」
この日は9曲を歌った。
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そしてラストライブは大阪城ホール。親と一緒にジャネット・ジャクソンを見た思い出の場所を最後に選んだ。
1987年大阪生まれ。幼い時から歌手になるのが夢だった。高校生になると福岡に作曲の勉強に通った。
絢香は17歳でプロデューサーの目に留まった。そこからは夢が叶う道に入ったが、思わぬ病気に見舞われた。
パセドウ氏病。長いライブは出来なくなった。「すぐに落ち込みからは復活して、次になにをやらなければならないかがハッキリしてきた。」と前向きに捉えた。
ホルモンが異常に出てしまい、動悸息切れが激しくなり、マラソンしているような状態になるという。プロデューサーの小林武史との会話で、その心情が語られる。
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絢香「やっぱり彼の存在があったからですね。一人なら薬でごまかしてみて見ぬふりをしていたと思う。彼が真剣に治そうといってくれて、考えるようになり、そこで歌を止める決断ができた。」
ラストライブのリハーサルが始まった。体調を考慮して1時間半13曲に留め、デビューから4年間を凝縮し、絢香のボーカルを生かすためアコースティック中心でいくことにした。
ギターの柳橋さん「前から病気のことは知っていたので、これからもこんな感じでやるのかなと思っていた。」
バイオリンの土屋さん「3階にあがるのもやっとの状態を見てきた。」
18歳のときにリリースした「三日月」が絢香の地位を不動のものにした。
♪君がいない夜だって・・・頑張っているからね。強くなるからね。~三日月に手を伸ばした。
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リハーサル中に思わぬものが大阪の実家から届いた。大阪城ホールのジャネットのコンサートのチケットの半券だった。喜ぶ絢香。
最後に歌う曲は「みんな空の下」と決めていた。もともとはプライベートな曲だった。何故かリハーサルでは歌いきることが無かった。
絢香「今の状況にピッタリなので感情移入をしてしまいたくない。本番にパワーを取っておきたかった。」
ラストライブまであと1日。11歳のときに初めてみたライブの会場で最後のステージに立つ。
その日に大阪城ホールの支配人に挨拶。「校長室みたいで緊張した。」と絢香。
会場ではセットなどの設営が進んでいた。そして初めて見たライブの座席に行ってみた。「こうやって見てた。もっと小さく見えた。会場の熱気と肌で感じる思いに感動した。」
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会場では当日1万人近い人が長蛇の列を作っていた。
いよいよ最後のライブが始まる。発声練習を繰り返す絢香。スタッフと掛け声をかけていよいよステージへ。
♪Jewely dayからスタート。♪I blieve。♪三日月。
「これからも大切に笑顔で生きていきたいと思っています。最後にここに来て頂いたみなさんに届けたいと思います。」と語って♪みんな空の下・・・何も恐くないひとりじゃないよ、みんな空の下~アナタの笑顔は誰よりも輝き、雲り空も晴れにしてしまう。~何度も高い壁乗り越えたから、何も恐くない~みんな空の下。
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絢香「いつかわからないけど、戻ってきますよ、必ず」
最後は再び紅白歌合戦のステージへ。