21世紀マンガノチカラと題して人気漫画家浦沢直樹さんを訪問。
いきなり仕事場に乱入。背景を描く人、人物を描く人など分業制だ。
書棚にはたくさんのマンガと資料がぎっしり。
浦沢さんはお宝の漫画家のサインカードも見せてくれた。
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浦沢「下書きの迷い線が無いときがある。マンガの神様が降りてきたときで、翌日は体調が悪くなることがある。肩を脱臼したこともある。そういうときはいいものが次々出る。」
浦沢「得意なのはマンガだな。こういうものができるというのがわかってきた。」
・・・ここで20世紀少年の簡単な解説があった。・・・
浦沢「なにか時代の要請のようなものがある。」
太田「オウムの麻原のようなものが出る。」
浦沢「’ともだち’になれると思う人がすごく多い。」
太田「ケンジがいなくなる手前で終わらせておけばよかったのでは。」
浦沢「終わりは最初に決っていた。ある地点で考え直すけど、やはり最初の考えがいいなと落ち着く。」
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23歳で漫画家デビュー。デビュー当時は漫画家になりたいとは思っていなかったという。その理由は当時売れていないマンガが好きだったからだという。
浦沢「永島慎二の「漫画家残酷物語」とか、山上たつひこの「光る風」とかが好きだった。ものすごく暗かった。」
浦沢「編集者になろうと思って原稿を持っていったが、思ったとおりのことを編集者が言った。そのとき通りかかった人が、サンデーじゃなくてビッグに行こうといって’いいじゃん’といってくれたのが切っ掛け」
浦沢「それで新人賞に出してみたら受賞した。大友さんが出てきた頃でメジャーがそんな作風を吸収しようとしていた時代だった。」
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浦沢「中学のときに手塚治虫の’火の鳥’を読んで、気が付いたら夕方になっていた。なんじゃこりゃと思った。」
浦沢「手塚さんは自分が一番面白いということに対するプライドが凄い。」
太田「俺らはビートたけしさんから抜け出せない。亜流になっちゃう。いなきゃいいと思うこともある。」
浦沢「僕も悩んだ時期がある。これは新しいと思って描いても、うわっここにある!と思うことばかりだった。」
浦沢「キース・リチャードも過去の遺産を未来に語り継いだヤツと墓碑銘に刻んでくれといったが、これでスーとした。僕らも語り継ぐくらいしかできないだろうと。」
太田「いつか物足りなくなるんじゃないかな、このジャンルに。俺は漫才師だけど、漫才がそれほど好きじゃないんですよね。単行本や雑誌に拘るのは?」
浦沢「映像にいくのが出世ウオのようにいわれるけど、そうじゃないと思う。」
浦沢「ものを考えるときに、これ以上考えたときに頭おかしくなると思ったこと無い?」
太田「行ってしまうことは無いけど、行ってしまうと思う。」
浦沢「僕は行かないでおこうと思う。お茶の間的に受けるのはそこのハンドルプレーなんだろうなあ。」
田中「サザエさんのような安全運転もいいけど、両極にあるんだろうね。」
浦沢「描きたいものは売れない、その悪戦苦闘なんだね。マンガは藝術だと僕は思うけど、藝術として祀り上げられたくない。」
浦沢「日本マンガはエログロナンセンスもいっぱいある。」
太田「手塚さんはもっとマンガはストリートのものにならないといけないと言っていた。」
浦沢「マンガはサブカルチャーでなければいけない。たけしさんや爆笑問題もサブがメイン、サブがメインとなってきた。浦沢はサブなのにメインにいるのがおかしい。」
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マンガはいつもサブカルチャーだった。「あしたのジョー」はどこにいるのか。
浦沢「別ジャンルの僕らが読みづらいと思ったものを若者がキャーキャー言ってるというのが理想かな。手塚先生はコマワリを壊してくれないと!と言っていた。」
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毎日ペンを走らせる20世紀少年が浦沢直樹だ。