子規は東京に戻ってすぐに松山に療養に帰った。真之は「筑紫」が呉の港に帰還し、松山に向った。真之と子規は再び松山で再会する。松山には夏目漱石も赴任していた。子規はカリウスにも冒されていたのだった。

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ロシア・フランス・ドイツが覇権を争った遼東半島。日本は朝鮮半島への影響を強めるべき王妃を確保した。

日本政府の伊藤博文と陸奥宗光・井上馨は激論を交わした。ロシアの対処方針について、軍事に頼るべきか、外交に頼るべきかで。

真之は東京に戻り広瀬中佐と会う。二人は下帯一本で写真撮影に臨む。

二人は兄の家に寄り歓待を受ける。

明治30年7月、海軍省の山本権兵衛から留学生が発表され、真之はアメリカへ、広瀬はロシアへの留学が申し渡された。

子規は東京根岸に戻って療養生活をしていたが、脊髄カリウスが進行し痛みはさらに増していた。真之が見舞う。二人は日本国の行く末を真剣に語り合う。

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その頃のアメリカ海軍は2流でしかなかったが、一流にならんとする時期であった。真之はそのアメリカに留学した。アルフレッド・セイヤー・マハンに面会し海軍の作戦について薫陶を受ける。アメリカはキューバをめぐってスペインと対峙していた。当時キューバはスペイン領であった。ハマンは日清戦争における黄海の戦いぶりを分析していた。

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広瀬はロシアのサンクトペテルブルグにいた。おそらく彼の役目は諜報活動だったであろう。先に八代六郎少佐が赴任しており、広瀬は八代に指導を受けた。広瀬はニコライ2世に謁見したおり、運命の女性と出会う。

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宣戦布告のチャンスを狙っていたアメリカはついにスペインの植民地キューバを奪うべく宣戦布告する。

日本は遼東半島を事実上ロシアに奪われる。

広瀬はアリアズナと舞踏会で再び出会い、踊る相手として誘われる。ダンスが意外に上手なことから嫉妬されて、柔術の技を見せるようせがまれる。広瀬は背負い投げを決める。

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サンチャゴ湾ではアメリカが閉塞作戦を展開。真之はそれを目の当たりにする。乗組員の生還が難しいことなど真之は実戦勉強する。これが旅順で生かされる。

サンチャゴ湾を封鎖されたスペイン艦隊は全滅。無敵艦隊と言われたスペイン艦隊は海に沈んだ。アメリカはこの沈んだ艦隊をくまなく調査した。それを真之は見ており、まさにロシアとの海戦のシミュレーションをしたといってもいい。

アメリカにはロシアの留学生も来ており、真之に旅順の地図を求めるが真之は断る。このキューバにおけるレポートが秋山真之を戦術家として確固たるものとしたのである。

真之の英語教師でもあった高橋是清が銀行の副頭取としてアメリカを訪問していた。二人はナイアガラ瀑布見物をし、アメリカ原住民族と触れ合う。高橋は白人がいかにして原住民族インディアンをクリアランスしていったかを語る。180万人いたインディアンが20万足らずになったことを。インディアンの敗北は決して人事ではないことを。

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6畳一間と庭でしかない子規の居住空間。しかしその場所には大勢の友人が来ていた。「子規庵」と呼ばれて、俳句仲間が集っていた。子規は庭を「小さな楽園」と名付けた。ここが子規の世界であったが、十分に大きな森羅万象の世界でもあった。

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ニューヨーク。駐米日本公使小村寿太郎と会う。父の負債を受け継いだため恐ろしく貧乏だった。インディアンのイロクワ族と同じ運命にならないためにと話し合う。真之はこの年にイギリスに向う。

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ロシアのサンクトペテルブルグは既に赴任後6年たった広瀬が、最も人気のある海外外交官となっていた。

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律の手厚い看護を受けながら、子規は根岸の部屋で新たな歳を迎えていた。

秋山好古は騎兵の改革に手腕を発揮していた。

1900年1月、真之はイギリスに向う艦船にいた。

(第1部 終わり、第2部は来年の12月スタート)