61年前、東京裁判が判決の日を迎えた。昭和23年11月23日。陸軍関係者6人が死刑判決。海軍関係者は終身刑を受けたが後に釈放された。

国土は焼土となり、多くの国民の命が失われたが海軍は何故このような刑で済んだのか。

テープには組織を守ろうと動いていた実態が語られる。

豊田元大佐「頑張れば自由の身になれる。」、当事者達の告白を聞く。戦争犯罪’第二の戦争’

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原宿の一角、海軍OB会「水交会」で反省会が開催されていた。

豊田元大佐、将来を約束された軍人だった。海軍兵学校を首席で卒業、軍令部に配属され、海軍のあらゆる作戦を立案した。敗戦後「第二復員部」に所属し、裁判対策にも深く関与していった。「与えられた裁判業務がこれからの業務であり、新たな戦場である。」と。

息子の勲さん77歳が、父の覚悟のほどを語る。

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取材デスクが軍令部を再現したセットで、今回の録音テープをもとに、自らの責任にどう向き合おうとしたのかを取材したことを説明。

海軍大臣の嶋田繁太郎大将は死刑とすべきであるということを言われていたと豊田元大佐。「軍令部側は戦争は個人責任ではない。講和条約まで頑張れば自由の身になれる。」

嶋田大将は開戦責任など平和維持ができなかった責任と、敗戦責任で死刑は免れないという雰囲気のなか、軍令部はどう動いたのか。中島元大佐などが連合国側の商船を魚雷で撃沈したことや、救助した乗組員を機関銃殺したことなどの事実に軍令部がどうからんだのかが争点になると考えた。

三戸少将の記載した文書には乗組員も殺害せよとあるが、何者かが改ざんした命令書であるとした。

第一潜水戦隊は第一部の配下にあるが、軍令部は口頭命令にしようとしたが、文書化を求められて軍令部が書いた命令書であって、三戸少将の表現は偽証ではないかといったことが反省会で語られていた。

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証人の呼び出し、文書作成など軍令部はGHQ対策をしっかりして、嶋田元大佐は終身刑ながら昭和30年に釈放された。

第93回反省会で、多くの人が有罪となったBC級戦犯の話に及んだ。豊田元大佐も連合国から裁かれた一方的な裁判だと語る。「上の人を助けて、下のほうをやっつける。という方針がささやかれたという。」

豊田氏の同期の篠原氏が戦犯として巣鴨の拘置所に入れられたとき、逆に篠原氏は豊田氏を慰めたという。

その篠原大佐が問われたのは国際法に反して捕虜を処刑したというもの。インドネシアのスラバヤで起こった事件に対してである。

篠原大佐が逮捕後に獄中で記録した日記が、甥の家に残されていた。そこには司令部参謀が嘘を言って私を陥れているとしか判断のしようがない。といった記述がある。

86歳になる乗村さんは当時上等水兵で、上からの命令で捕虜殺害を言われたという。図を描いて説明する乗村さんは、そこの場に「法務官」が立ち会ったという。それはすなわち艦隊司令部が指示したということになる。

ところがその法務官を逃亡させたという。乗村さんも逮捕されたが上官の命令に従っただけということで釈放された。そして篠原大佐だけが死刑宣告された。

ニ復がどう関与したか不明になったまま、篠原元大佐は絞首刑になり執行された。

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弁護の基本方針が残されている。天皇に累が及ばないように、上層部に責任は無いことを方針としていた。

92回の反省会で、裁判にまでいかなかったことについても語られていた。

豊田元大佐が佐藤軍令部大佐に対し質問。大井篤大佐が語る。「昭和13年のさんそう島事件に触れる。死臭がひどかった。あのころの空気は敵は皆殺し。勝っているときにやってるんだから。」

106回反省会(昭和63年11月)、豊田澄男元大佐「(日本が批准していなかったため)ジュネーブ条約の内容が徹底しないままだった。」大井元大佐「捕虜どころか、市民にも残酷になっていた。」

さんそう島は中国の南西部の島。海軍は第六航空基地を置き、本土への爆撃基地にしようとした。

取材班はさんそう島で何があったのかを現地の人に聞こうとした。しかし当時を知る人はほとんどいない。

77歳になる陳さんにようやく聞くことができた。住民は基地周辺から移住させられた。李さんは村が焼き払われた、家族が銃殺され、自分の手で妹を絞殺したという。

軍側の記録によると、12000人いた島民は、大部分が逃亡し、残ったのは1800人程度だったと記載されている。

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110回反省会、この3ヶ月前に昭和天皇が崩御。

この会で初めて天皇の戦争責任が語られた。大井元大佐「道義的な責任は無い」など、責任があるという人はひとりもいなかった。しかし戦争責任を追及されるかもしれないと考えた人はいたという。

答弁がマチマチにならないように、裁判用に答案の骨子が作られたという。その議事録が中島さんの遺品から出てきた。座談会の出席者は海軍の中枢にいた人々。陸軍に責任を負わせる内容ととなっていた。

豊田元大佐は米内氏とフェラーズ大将にの関係に触れて、「対策として天皇が全く責任がないことを日本側から証明してくれることが必要。陸軍の東条に全責任を負わせることが肝要。」とされ米内が「全く同感」と答えたという。陸軍6人が死刑宣告。海軍は死刑0という結果となった東京裁判。

東京裁判終了後、豊田さんの印象「海軍は陸軍に引きずられて戦争に突入したという流れができあがっていった。」

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豊田元大佐は94歳で世を去った。

軍令部からニ復へと移った海軍中枢部。裁判対策をすることによって、多くの事実が表に出ることなく過ぎてきた。

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デスク「本来、国民ひとりひとりを守るべき国家や軍が、雰囲気という中で、簡単に国民の命を奪ってしまう。日本人でも310万人、さらにアジアでも多くの人が亡くなった。組織を守るより、ひとりひとりの人命を守るのを優先すべきだと私は思う。」