明治時代の雑誌の挿絵、ちょっとエッチだったり、毒とトンチが利いている。そんな絵を描いたのが宮武。投獄されること数知れず、有罪判決を受けること30数回。権力におもねない反骨の男。予は危険人物なり!と自ら評した外骨。宮武亀志郎が改名して亀の外骨内肉から骸骨とした。

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明治22年大日本帝国憲法発布。世間はお祝いムード一色だった。若い外骨は「はて今までの議論はなんだったんだろう?」と風刺画を描いたが、これで不敬罪になり3年の刑に服した。ちびた鉛筆で日々獄中で思いをつずった。

その後、大阪で滑稽新聞をたちあげて、警察の収賄事件を追及した。しかし当時は「官吏侮辱罪」があり、警官を訴えること自体が罪。その理不尽を新聞に掲載。これも侮辱罪になり禁錮6ヶ月になった。しかしころんでもタダでは起きないのが外骨。獄中の体験を出所後に滑稽新聞に掲載した。

やがて刑事が張り付くようになり、これすらからかったという。

そして世は日清・日露の戦争へと進んだ頃。資本主義から経済格差が出始めて、特権官僚をおちょくる新聞は庶民に大好評だった。

しかし発行禁止を言い渡されることがわかった外骨は「自殺号」として自ら廃刊。しかし外骨はすぐに「大阪滑稽新聞」を発行した。

人気の理由は、表紙が多色刷りで、美しいこと。中もイラストが豊富。それも絵文字のようなものまであり、素晴らしく先進的だ。

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森近運平は彼の弟子。明治の大逆事件で森近も逮捕され、絞首刑が執行された。外骨はこれを嘆き「言論の自由は縮小した。」と書いた。

そして選挙に立候補。人口の3%しか立候補できない選挙制度を痛烈に批判し、その後普通選挙への運動に大きく世の中が動いた。さらに少数民族への自治権付与や、徴兵制廃止など、当時は過激すぎる主張で、雑誌「民本主義」は政府管理雑誌となって廃刊となった。

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関東大震災勃発。外骨は詳しいルポを掲載する。新聞が出ずに、噂や流言飛語が出て、朝鮮人が数千人殺される。しかしこういった事実はふされていた。外骨は「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込む」といった噂に踊る庶民の姿や、実際に殺害の現場に出くわした様子をルポする。

事態が落ち着くと、更に大杉栄が殺害されるなど、混乱に乗じた粛清が行なわれたことが判明し、外骨自身もいつ官憲の追及・捕縛がくるともわからない状態になった。

外骨は、自由な言論封じ込めに対抗すべく、種類を多く発行して、あちらがダメならこちらがあるさ作戦を展開した。

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昭和の時代になって、外骨は東京帝国大学へと通うようになる。そのもともとは、大正時代の終わりに出た「治安維持法」暗い時代の幕開けを感じた外骨は、明治時代の自由闊達な状況を記録に残そうと、東京帝国大学で資料集めを始めた。全国を旅して古い新聞や雑誌を集める。地方で中央に気骨を示した新聞、御用新聞まで多種多様な状況を残そうとした。

満州事変によって長い戦争の時代に突入するが、外骨は批判精神を忘れずに、記事にもチクリとしたものがあった。しかし戦況が悪化するにつれて、全国民が戦争に借り出される時代になり、協力しないものは非国民とされた。

その時代にあっても外骨は、絵葉書のコレクションをしたり、馬と鹿の写真を左右に並べたものをアルバムとして作ったりした。

昭和20年8月、終戦時、外骨は疎開先の東京郊外で釣り三昧の日々を過ごしていた。

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明治以降の新聞雑誌文庫は外骨の後も作業が引き継がれて、戦後の近現代史の研究に大いに役立った。

アメリカ中心の占領軍のもとで、民主化が進められた日本。憲法草案が作られようとしていた時代。外骨は日本にも自由と民主主義を模索していた時代があったことを表そうとした。それがGHQの検閲にひっかかったが、激怒したという。88歳で世を去った外骨。その甥の吉野さんが、外骨とはどういう人間であったかを研究している。