スウィム・バイク・ランの3種目で競うトライアスロン。北京五輪で世界の選手と競った山本。

スウィムではカラダをぶつけ合うため傷が絶えない。

バイクはグループでの協力態勢が大事。駆け引きが行なわれる。山本はランが不得意なので、バイクで賭けに出た。折り返し点で先頭に出る。ランの強い選手達は山本の先導についていかず、山本はそのまま集団に取り込まれ飲み込まれてしまう。結局30位に終わった。

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母の節子さんと二人暮らし。両親が幼いときに離婚したため、母親が女手ひとつで山本を育ててきた。

日本を代表するアスリートになるまでは様々なことがあった。

小学生から運動はなんでも出来た。なかでも夢中になったのが水泳。小学生のときにはジュニアオリンピックにも出場した。短距離選手だったが中学になって記録が伸びない。長距離に転向してもトップレベルにはなれなかった。大学進学の道も閉ざされたと思い、暴走と喧嘩に明け暮れた。

しかし水泳そのものを止めることはなかった。泳ぎ終わると派手なバイクで遊びまわる日々。しかし何か吹っ切れないものを感じていた。「このままでいいのか?」と自問する。

母の節子さんも心を痛め、ついに行動に出た。たまり場になっていた家に行って、「係わらないで欲しい」と訴えた。山本自身もこの行動をきっかけに仲間から離れる決意をする。壮絶な抜ける儀式を甘受してボロボロになってそこから、走ることを始めた。走れるのならトライアスロンができるんじゃないかと、水泳の加藤コーチ。その一言でトライアスロンを行なうことに。

水泳は今でも同じクラブで練習する。今年30歳を迎えた山本。「普通30歳なんて泳がしてもらえないじゃないですか。コースとかも安心するし。」と育ったプールを愛する。

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18歳でトライアスロンに挑戦。始めはガーンと伸びたが20代になると、伸び悩む。成績が悪ければやめる覚悟だった世界大会も最下位になり、他の選手を応援するためにシドニーに行った。これを見たことが山本の闘志に火をつけた。「五輪は見るもんじゃなく出るもんだ。」と。

帰国した山本は母に頼み込んだ。「もう一度トライアスロンをやらせて欲しい」と。母もこの決意に賛成。それから8年後の北京五輪に出場。母を連れていくことが出来た。

そして次のロンドンでは「メダルをかけてあげたい。」目標は’金メダル’だ。

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普及活動にも力を入れて、未来のトライアスロン競技者となる少年達を指導。

2009年4月、石垣島で開催されたワールドカップ。

ロンドンを見据えて臨む初戦。スウィムで出遅れた山本は先頭集団に入れない。遅れを取り戻したいが逆に引き離され、16位でフィニッシュ。表彰台を見つめ、力の無さを痛感。

山本は’ホンモノになる’と決意を新たにする。今までの甘さを捨て’本物のアスリートになる’とブログに決意を記述。

自分に足りないものは何なのか?いきついたのはランの実力。北京でもランが得意な選手が上位を占めた。

ピッチ走法を取り入れて安定した走りをするよう、ランの専門家との練習で1kmを3分10秒を切るペースで走れるよう練習した。

天草のコンチネンタルカップ。練習の成果が実戦で試される。

本物になるための第1歩だ。得意のバイクで集団を引っ張り、課題のランに臨む。山本はランで5人のトップ集団の中でデットヒート。息詰まる戦いは残り100mの直線勝負となった。山本は僅かな差で3位だった。

内容どうこうよりも勝負に負けたのが悔しい!

更なる上を目指すためにバイクに取り組む。練習相手はプロの競輪選手。

競輪選手の瞬発力は桁違いだ。彼らについていくことができれば、なんとか引き離せると考えている。種目のトップ選手に聞いて、なにかを掴もうと努力。本物のアスリートになるために。

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「自分との戦い」を継続する山本。ロンドンまであと3年。今やるべきことをたらないと無理だと気づいたという。

蒲郡の大会。バイクで果敢に飛び出した。ランの段階では全身に疲労が蓄積、限界に挑戦する形になったが圧倒的な力の差で優勝。今シーズン初勝利である。もがき苦しんだ結果がひとつ出た。