1578年5月、武田軍が目の前に迫ってきていた。春日山城では家臣栗林、深沢などが迎え撃つ覚悟を景勝に述べるが、城が手薄になることに懸念をのべる兼続。しかし兼続らは城を守る覚悟を決め、栗林と深沢は上田の庄に向かう。

景虎は御館でこの報を受ける。仙桃院は武田や北条の動きは越後を我が物にしようという魂胆があると忠告するが聞き入れない。妻の花も仙桃院に、殿を信じる!と告げる。

春日山城では、眠れぬ夜を過ごす兼続がいた。惣右衛門はそんな兼続を気使う。「そなたは戦が嫌いなようじゃのう。」と声をかける。「わしは命の尽きるまで、戦場に向かうそなたらを見守ること。そなたは最後まで美しく生きるのじゃ。ここで諦めたら、あの世で’お藤’に顔向けができん。」と励ます。

その頃、信長は着々と天下統一を進めていた。真田の娘’初音’は信長に「表の道に頼らず、裏の道も探し当てることが真田の家訓’と話す。

武田の軍勢は3万を下らず、北条はそれ以上、兼続は圧倒的な敵の数の前に妙案が浮かばない。与七がポツリと「武田を味方にするでもしなけりゃ」と言ったのを聞いて、兼続はこの案を実現しようと景勝に提言する。しかし武田に頭を下げるという案に、吉江らの重臣達は皆反対する。景勝もこの提案は「到底できぬ。」と却下する。

景勝は「お館様がお許しにならぬ。」と理由を述べるが、兼続は「お館様と殿は違います。一人で立つおつもりはないのですか?」と詰め寄る。景勝はついにこの案を受け入れて、兼続を使者に送ることを決断する。こうして川中島の戦いから25年、上杉家の外交政策を180度転換することになった。

お船は直江信綱との夫婦関係の修復ができないままであった。妙精尼も心配していたが、この夜はつつがなく床を供にすることができた。そんな夜、眠れずに外を見に出ると、兼続が屋根から降りてきたところにバッタリ出くわす。兼続は武田に和睦の使者として出向くことを話し、「私にもしものことがあったら殿をよろしく」と依頼する。お船は髪の毛を束ねていた組紐をお守りとして渡す。兼続はいよいよ出立する。与七と泉沢が供をすることになった。吉江は「お館様は泣いておられる。」と抵抗するが、景勝はこれを退ける。

3人はすぐに武田の軍勢に捕まる。対応したのは高坂弾正だった。3万の軍勢に3人とはと語るが、高坂は人払いをして、兼続の話を聞くことにした。兼続は、北条との提携を切るよう要望し、上杉側の土地信濃の一部を与えるという条件を話す。高坂は「今こそ武田と上杉が手を組み、乱世に対応すべきかも。」と提案を受け入れる。高坂は「謙信公は良き部下を育てられた。」と武田側を取りまとめることを約束する。

こうして、上杉側、絶体絶命の危機から救った。

しかし、この難局を乗り越えたものの景虎との跡目争いは続いていた。

(つづく)