唯一の証拠を猫の実験から確証していた細川が「非はわが社にあり。」と語るその日。1973年3月20日、水俣病の患者が勝訴した日。

水俣病の原因を作った会社の勤務医だった彼は、会社の幹部に報告するが隠蔽を指示され、付属病院の院長だった彼が真実を語るまで。

高度成長を支えた重化学工業のなかに熊本県水俣市にチッソの工場があった。当時の人口5万人のうち4千人がチッソに勤め、市の財政の半分がチッソからもたらされていた。チッソの付属病院も水俣にある唯一の病院だった。「院長室を作る費用があったら、診察室や入院室を作って欲しい」という細川院長は信頼も厚かった。

そんな院長がこれまで見たことも無い症状の少女が運ばれ、数日後その妹も運ばれた。この原因不明の手足のしびれ・視野狭窄などが保健所にも報告された。

細川は近隣の聞き込み調査を始めた。患者の出た1軒1軒を深夜まで尋ねて、ノートに記した。明らかになったのは海のそばで暮らし、魚を食べている人たちだった。工場の排水ではないかと考えた細川。漁業関係者が会社に詰め寄った際に、細川は会社側に座り「原因は会社かも知れないし、そうでないかも知れない。」

細川は原因究明を使命と考え、社内研究班が組織され、その検証に乗り出した。

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ゲストは有馬さん。「本人は目がキラキラしていて、心がきれいな先生だったといわれている。」

「戦前から技術のチッソと言われ、国益の為に日本を支える企業だった。」

「会社の側にいながら会社の非を唱えることになる悩みを抱えることになった。」

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しかし公害問題が本格化し、水俣の魚が売れなくなり、稼ぎがなくなった漁師たちは病院にも払うオカネが無いと訴えられた。

細川は猫を使った実験を開始、1959年にようやく原因の糸口が見つかる。熊本大学から有機水銀が原因との見解が出された。当時の社長は、無機水銀しか出していないと反論。確かにビニール製造の過程では無機水銀しか出ない。細川は工程途中で出る工場排水を猫に投与し、その77日目に猫400号は全身痙攣を起こした。なんらかの課程で無機水銀が有機水銀に変わり排出されていると考えられた。

しかし会社に報告すると、まだ確かでは無いとされ、以後の調査を中止に追い込まれた。

ビニール製品が好調で、水俣市の財政を支えている状況で細川も躊躇した。

医者であり会社の幹部でもあった細川は悩んだ。

一方チッソはなんらの対策を採らないままだったが、浄化装置を取り付けたが有機水銀を除去してはいなかった。患者側にはオカネで解決しようと補償金30万円を提示し、日々の生活に困っていた患者側はこれを受け入れざるを得なかった。以後何も要求しないという契約とともに。

昭和31年、定年になった細川は、辞表を提出しチッソ付属病院を辞する。

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昭和40年代高度成長時代は終わりを告げ、四日市では大気汚染など公害という、今までの利潤追求優先による負の遺産に対峙することになっていく。

1969年10月15日、28世帯115人の患者たちは訴えを熊本地方裁判所に起こす。

原告側は、会社が有機水銀と知っていながら流しているという事実をつかめないでした。

そんな折に細川に電話が入る。細川は4年前に新潟県阿賀野川に第2に水俣病が発生し、そこで同じような患者が発生していることを知り、後悔する。「あの時、キチンと話していればこのような被害は起きなかったのではないか。」細川は患者側の証言に立つことを決意する。

1970年5月、細川は末期の肺がんに倒れ、法廷に立てない状態になる。弁護団は臨床尋問を行なうことを決意。医師の1回にしてくださいと要望で1回だけ実施される。

7月4日午前10時、細川の臨床尋問が始まり、淡々と語り始める。そして弁護団から猫400号の実験経緯を語り始める。弁護団は会社側も知っていらっしゃったわけですね?という質問に、細川は事実を答える。

そのわずか3ヵ月後に息を引き取った。

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1973年3月20日、判決が言い渡され、チッソの過失責任が認定されて患者側が勝訴した。

細川が発症症状を報告するのは自然なことだと判決文でも述べられ、これが患者側勝訴の大きな証拠とされた。

スタジオから・・・「いろんなことを背負って、自分が証言しないといけないと考えたのでしょう。」「結局利潤追求をやって他の人を傷つけたり苦しませたりしてはいけない。」「地域経済の中で孤立しても企業論理に立ち向かうことの契機となった。」

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第一次訴訟から現在まで、なんども裁判を争ってきたが、今でも患者は苦しんでいる。国が認めた認定基準をクリアしなけらばならず、病に苦しみながら認定基準の見直しを要望して補償を受けられない人が大勢いる。

水俣では資料館が作られ、訪れた人に語り現状認識を深めてもらっている。

細川一は孤独に会社の罪と向き合ってきた。その彼のメモに「人命は企業の論理に優先する。」とある。