去年の世界選手権。男子100mこれを最後に競技を終えるつもりだった朝原。レース後は満足していると語った。その1ヵ月後、北京への挑戦を宣言。後押ししたのはシンクロで五輪選手だった妻。朝原は「この年齢でどこまでやれるか挑戦したい。」今年36歳になり、4度目の五輪を目指す。

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指導者やライバルがアスリートにとっては必要。しかし朝原はコーチにつかず自分自身で練習メニューを決めてこなす。10秒14は去年のナンバー1の記録だ。

彼の足に特徴があり、土踏まずも筋肉で膨らんでいる。筋力トレーニングではスナッチで200kg近くを上げる。年齢からくる衰えを克服するためでもある。

15年に渡り100m走をリードしてきた朝原の強みはスタートダッシュだ。パウエルをも上回るパワーだ。秘密はスタートの姿勢。自然に強い反発力を持つ姿勢だ。

220kgのバーベルを担いでスクワット。「体幹」を鍛える。

「力だけでなく体の傾きとか、正確な動きとかが必要。メンタル面も大事」と朝原。

同志社大学入学から本格的に100mに挑む。特に記録が目立つことも無く、普通の職に就く予定だったという。

ところがひとつの出会いが朝原を変える。同級生の奥野史子だ。同じ授業をとっていたきっかけで付き合うようになった。奥野はバルセロナ五輪のソロとデュエットでメダルを獲得していた。

朝原は「追いつこう。」という意識が芽生えたという。ここから練習に真面目に取り組み、記録も上がっていった。1996年のアトランタ五輪に出場。朝原は準決勝まで進み、決勝まで0.4秒までのところだった。基礎から学ぶためドイツ・アメリカと留学。奥野とは遠距離恋愛を覚悟。奥野もそれを理解し送り出した。

そして出会ってから11年、2002年で結婚。女の子にも恵まれる。2004年アテネ五輪、これが最後と思っていた朝原だったが、記録は伸びず上位選手との差を感じた。

引退を思い留めたのは長女の存在。会場に足を運んでくれても、父親の頑張る姿を見せることができないというジレンマから。再度大阪の世界選手権をターゲットにトレーニングをやり直す。

地元大阪の世界陸上。予選1組タイソン・ゲイと一緒に走り、先頭でフィニッシュ10秒14だった。納得のいく走りができたと感じていた。「燃え尽きた」とも感じた。

ところが時間がたつにつれ、「まだやれるのでは」という意識が芽生えた。世界と戦うレベルに上がってきているという実感がそうさせていた。妻の史子さんは22歳で腰痛で引退していた。史子さんに相談、史子さんは「ボロボロになるまでやればいいんじゃない」と答えたという。

こうして再び、五輪を目指す。

100mで決勝の8名に残ることは76年間もないことだ。(暁の超特急吉岡さん以来ない)

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豪州合宿をした朝原。パウエルなど世界の一流選手も合宿している。五輪イヤーは調整に早めに入る。朝原はレースにも出場。パウエルと並んでの初レースだ。

合宿から戻った3月末。京都の小料理屋に立ち寄る。店の主人は学生時代の陸上部の選手だ。

朝原は1年の4分の一は海外など遠征。家族で暮らす時間、ゆっくりする時間は限られている。この店で五輪を目指したときを思い浮かべる。

沖縄で1週間の調整を行う。レースは4月の出雲陸上があり、その後の4つのレースで標準記録を突破し、1位になって北京への切符を目指す。

スタートの位置も替える。しかし頭で考えたように体は動かない。微妙なズレを少しずつ調整していく。しかししっくりくるスタートは見つからなかった。「ああ、これだ!というのが見つかっていない。全てがうなくいっていない。」と朝原。

食事のときに右利きだが左で箸を持って食事をする。カラダのバランスを調整するという。電車のつり革なども左右交互を心がけているという。

「持久力」アップにも取り組んでいた。200mを走り体に負荷をかける。1分半後に100m、乳酸が溜まった状態で走り、後半のスタミナをつける。2時間半の練習のしめくくりは再度200mを走り、再び100m。走りの1本1本でレースを想定して走った。

練習後はマッサージに向う(家族とのコミュニケーションを気にしながら)。針灸医院でマッサージを受ける。赤嶺さんのところだ。赤嶺さんは「仕上がりが早いね。筋肉の状態いいね。」と話す。練習の成果が現れていた。

4月20日出雲の大会。今年初めての大会だ。しかし朝原はこの大会を棄権した。記者会見が緊急で開かれ、腱と筋肉のつなぎ目あたりが痛いということだった。スパイクを履いた練習中になにかが起きたらしい。今年のスタートからつまずいた。

足のことは妻の史子さんに伝えた。史子さんはケガの状況がかなり深刻なのではと感じ取っていた。軽いメニューしかできない日々が続き、痛みは無くなったもののメニューがこなせていないため、ぶっつけ本番のレースが続くことになった。

4月29日の織田記念陸上。期待を背負った朝原であるが、顔色が優れない。しばしば咳き込む。実は前日から高熱が出ていて、大量の水を飲み、ほとんど食事を摂っていなかった。沖縄合宿からの疲れが出たようだと本人は分析。そのカラダをおして予選から出場した。10秒17をたたきだしA標準は突破した。しかし準決勝以降のレースはカラダが限界に達しており棄権。出場権獲得はお預けとなった。

7月までのレースで優勝と再びA標準の突破を目指す。

「燃え尽きるまで走るんだ。」