9月16日に田舎の同級生の家で、中学校の時の小規模な同級会があって参加した。15人と先生が一人だった。
その記念写真が届いた。
その写真を見て、姿、立ち方、顔つきがずいぶん前に見た父の写真を見ているような気がした。
なかなか会いに行けないが、足も弱って目も弱っているが、元気にいる。
今の趣味でもある鮎釣りは父親が師匠だ。時々行く松茸採りも父が師匠だ。父の得意は筆文字だったが、そこはだめだ。(^^; 尺八の演奏も田舎に弟子がいるが、これも教えてくれなかった。門前の小僧くらいだ。
母が生きている内に、父と演奏がしたいと母が選んだのは三味線だった。一緒に演奏を楽しんでいたようだ。そのころ自分は田舎を離れていたから、実際には聞いていないが、良き伴侶の母だったようだ。
母が亡くなって1週間ほど「毎日夜になると出掛けてしまうから心配です。」と義姉から電話があった。 「ついていってしまっても、お義姉さんのせいではないから、そっと見守ってやってください」と伝えたほどだった。
あれから何年になるか、今思えば尺八を隠し持って出掛けて、河原で母と演奏していたのかも知れないな、って思う。
ツウツウ、レロレロとカタカナで書いてあったり線が引いてあった尺八の楽譜を見たことも思い出す。
自分が小学校の頃、家の手伝いとしてやっていたのは瓦屋だ。「セメント瓦」を作っていた。砂とセメントを練ることや、瓦の型に油を塗って手が油だらけになってイヤだったが、「こぬか(米糠)」で洗うとしっかりとれた。それ以上に手がすべすべになるのが嬉しかった。日曜日も、休日も、冬休みも、夏休みもずっと家の手伝いだった。砂の扱いもセメントの扱いも型の扱いも厳しかった。セメントの練り方も、中学の頃は任された。だからその辺りで職人を意識し始めたかも知れない。
その手伝いの隙間に鮎釣りや、渓流釣り、キノコ採りやヘボ採り、スズメバチ採りを教えてくれた。山遊びや、川遊びはすごく得意な父だった。
「建前」と言う行事に父は良く出掛けていた。屋根瓦は家造りには大切な事だ。お祝いのご馳走をいつも持って帰ってくれたからそれがすごく嬉しくて美味しいものを食べられた。でもいつも酔っぱらった部分は自分たちは見たことがない。
そして、とてもおしゃれだった。
炭火を入れるアイロンがあって、口をとがらせてからくわえて霧吹きをする、母の姿もおかしくて良く覚えている。